鞍馬寺の魅力は、雰囲気を直接体感するだけで充分かもしれませんが、その歴史を知ることで、さらに魅力が深まります。神仏と通じた人々の営みによって積み重ねられた歴史を辿ることも、ワクワクする体験の一つだと思います。
前回は深山幽谷の神聖な空気を味わった「体感編」でした。今回は「歴史編」として、鞍馬寺が霊地として現在も信仰を集める由縁を紹介します。
~目次~
1.有史以前:魔王尊降臨
2.奈良時代:毘沙門天現わる
3.平安時代初期:千手観音を祀る
4. 鞍馬山にやってきたスーパースターたち
5.変遷を経て鞍馬弘教へ
6. 歴史を映し出す祭
1.有史以前:魔王尊降臨
さまざまな変遷を経た鞍馬寺。最初の出来事は、護法魔王尊の登場です。
登場のしかたがスゴイです。『鞍馬山小史』から、抜粋します。
「六百五十万年前の出来事といいますから、人類発生に先立つこと百五十万年以上ということになります。
そのとき、天も地もすさまじい音をたて、無数の火の粉がぱらぱらと降ってきました。中天には巨大な焔のかたまりが炎々と燃えさかりながら渦を巻いています。その中心から、透きとおる白熱の物体が回転しながら舞い降りてきました。〈中略〉 宇宙の大霊である魔王尊が、このとき金星から地球の霊王として鞍馬山上に天下ったのでした」(『鞍馬山小史』 p5)
「魔王尊と書きますと、悪魔の首領のように誤解されかねませんが、実は、あらゆる魔障を征服し屈従させて善魔に転向させる大王だから、魔王尊と申し上げるのです。つまり、破邪顕正のお力を授けてくださる守護神と思っていただければよいでしょう」(同 p9)
近年、疲弊した地球のアセンション(次元上昇)を導く存在として注目される「サナート・クマラ」は、この魔王尊だと言われています。サナート・クマラからのメッセージを伝える『アルクトゥルス人より地球人へ』にも、鞍馬寺への降臨が記されています。彼曰く、六百五十万年前ではなく、一千万年前のことだそうです。
「そのころの地球は地質学的な激動の陣痛をくぐり抜け、ようやく一部の地域が安定してきたところでした。私はその様子をしばらく見守ってから、この初々しい惑星に降り立ってみることにしました。そこで母船よりもずっと小型の着陸船を、あなたがたがいま日本と呼んでいる土地の鞍馬山の上に据え付けました。私が降り立ち、飛び立ったその地点に、今では小さなお堂が建っています」 (p65)
この小堂こそ、前回のブログでも紹介した「奥の院魔王殿」です。
サナート・クマラが乗ってきた着陸船を象ったオブジェもありました。「本殿金堂」のすぐ脇、奥の院への入口に建つ「金剛寿命院」の庭にある立て砂がそうです。銀閣寺の「向月台」とそっくり同じ形をしています。(銀閣寺の向月台はこの伝説とは無関係のようです)
この「金剛寿命院」は、鞍馬弘教の本坊にあたります。鞍馬弘教は、三身一体の尊天(毘沙門天・千手観音・護法魔王尊)を本尊としています。
地球と人類の進化を促すため、宇宙のかなたからやってきて、地球の霊王となった魔王尊。5月の満月の宵には、天界と地上との間に通路が開けるので、この宵を期して魔王尊を仰ぐ祭典が行なわれています。
(☞ 6.「五月満月祭」に関連)
寺院の開基は鑑禎(がんちょう)上人、創建は770年。平安遷都の24年前のことです。
唐から苦難の末に平城京にやってきた鑑真和上をご存知でしょう。鑑禎さんは、あの鑑真和上にお伴して来日した高弟の一人です。最年少(二十余歳)だったそうです。言葉の不自由な異国で、鑑真に仕えながら、唐招提寺で伝教していました。
鑑真没後7年目、鑑禎は夢の中で「山背国(のちに山城国と表記)北方に霊地あり」というお告げを得て、鞍馬山に入ります。その夜、山中で鬼に襲われますが、倒れた朽木が鬼を押しつぶし救われました。
翌朝、その場所に毘沙門天像を見つけます。鑑禎は「仏法護持の像が降臨された」と喜んで草庵を結び、その像を安置しました。
毘沙門天が霊夢に現われたのが、正月(寅の月)の寅の日の寅の刻だったことに因み、現在も盛大な祭が行なわれています。
(☞ 6.「初寅大祭」に関連)
この開創説話は、『鞍馬蓋寺縁起(あんばがいじえんぎ)』だけに書かれていて、他所には見当たらないそうです。では、他の書物ではどのように鞍馬寺開創は語られているのでしょうか? それが次に挙げる平安時代の出来事です。
3.平安時代初期:千手観音を祀る
平安遷都に伴い、東寺の建設責任者「造東寺長官」となった藤原伊勢人(ふじわらのいせんど)という人がいました。東寺は正式名「教王護国寺」から分かるように、官寺です。自らが信仰する観音菩薩を祀る私寺を建てたいと願っていると、夢に現れた貴船明神によって、霊山に伽藍を建てるよう告げられます。
道も分からない伊勢人は白い愛馬に鞍をかけ、霊山に導くよう頼みました。「鞍」を置いた「馬」が導いたので、後に鞍馬山と呼ばれるようになったのです。
(☞ 6.「花供養」に関連)
辿り着いた場所には、前述の毘沙門天がすでに祀られています。とまどった伊勢人でしたが、「毘沙門天も観音も同体」と夢で童子に諭されます。そこでお堂を建て、毘沙門天と共に千手観音を祀りました。8世紀末、796年のことです。
説話集『今昔物語』や歴史書『扶桑略記』では、この経緯をもって鞍馬寺創建としています。
(ちなみに「扶桑」とは日本の異称)
鞍馬寺には国宝の毘沙門天像があります(霊宝殿*に安置)。左手を額にかざして、国を見守っている独特の姿です。1126年の火災で焼失した直後の再興像と伝わりますが、もっと古い可能性もあるそうです。なんと胎内に聖観音の銅像が納められているそうです。「毘沙門天も観音も同体」という創建時のお告げを再現したのですね。
*注:霊宝殿は冬期閉鎖。現在この毘沙門天は奈良国立博物館に出張中(2020年3月22日まで特別展にて会えます)。
*追記:奈良国立博物館は新型コロナ肺炎の影響で3月15日まで臨時休館中。16日以降についてもHPなどで確認してください。
千手観音が祀られてから約百年後の9世紀末、東寺の僧だった峯延(ぶえん)がやってきて伽藍を整えたので、真言密教色が強くなりました。
この峯延上人が護摩の秘法をおこなっていたとき、雄の大蛇に呑まれそうになります。
しかし上人が尊天の真言(呪文)を唱えると、大蛇は呪縛されて動かなくなりました。つがいの雌の大蛇もいたのですが、鞍馬山の水を絶やさないことを約束させ、逃がしてやりました。
話を聞いた寺の管理人(前述の藤原伊勢人の孫)のもと、雄の大蛇は切り刻まれ、静原山へ捨てられました。雌の方は「閼伽井護法善神」として本殿金堂の東側に祀られました。現在も「閼伽井護法神社」として残っています。
(☞ 6.「竹伐り会式」に関連。この説話が見事に反映された祭で驚きます)
4. 鞍馬山にやってきたスーパースターたち
◆比叡山延暦寺の開祖、最澄が唐に渡る前に、参籠したと伝わります。最澄が刻んだ不動明王が、僧正ガ谷不動堂に安置されています。前回書きましたが、この辺りは霊気がみなぎっていました。
◆峯延上人の大蛇退治で有名になってからは、さまざまな人たちが参詣しました。
白河上皇をはじめ多くの貴人、清少納言や菅原孝標の娘(『枕草子』や『更級日記』に描写)、念仏を庶民に広めた空也、さらに融通念仏に発展させた良忍(エピソード後述)などなど。
信仰の対象というだけでなく、修行の場であり、宗教的インスピレーションを得る霊場だったことが分かります。
◆毘沙門天を祀る鞍馬寺は、武運長久を願う武士たちの信仰も集めました。
なんと初代征夷大将軍坂上田村麻呂が奉納した剣や鐙(あぶみ)が寺宝として遺されています。
そして牛若丸。火災で残欠しかありませんが、義経となって着用した甲冑や太刀も鞍馬寺に現存しています。
室町時代には歴代の足利将軍が(どうやら武運を頼むというより、応仁の乱や戦国時代の動乱と荒廃を逃れた、という感じで)滞在しています。
戦国時代の武田信玄は、「虎の巻の法」による戦勝祈願へのお礼状を送っています。また、豊臣秀吉・秀頼親子、徳川家康らも信仰を寄せていたようです。
江戸時代に入り平和な世の中になったので、武運長久の願掛けは影をひそめましたが、一般大衆からの信仰は盛んになりました。それが脈々と今日まで続いているのです。
初期の鞍馬寺は真言密教色が強かったのですが、牛若丸がやってくる少し前、1135~1140年頃には天台宗として定まりました(天台宗にも「台密」といって密教の系統があります)。
しかし密教一辺倒ではありませんでした。森羅万象の神々を敬う古神道の要素も残しつつ、浄土信仰(念仏によって来世の幸福を願う)も融合させていきました。
ここでご紹介したいのが、融通念仏の祖、良忍上人です。平安時代の後期、大原の来迎院(天台宗)で念仏三昧の生活を送っていました。「融通」という言葉から分かるように、融通念仏とは、一人で念仏を唱えるよりも、大勢で唱えて「互いに徳を融通し合う」ことを提唱します。ご利益がその人数分倍増するからです。
良忍さんは、念仏を唱和した証として「名帳」に名を記すことも説いて回りました。これに賛同した鳥羽上皇をはじめ公家や庶民も署名をしました。ある日の早朝、青衣の僧がやってきて署名をしたかと思うと、さっと姿を消したのです。誰だと思いますか…???
不思議に思った上人が名帳を開いてみると、「念仏を百遍きかせてもらった鞍馬寺の毘沙門天王が、念仏の結縁者たちを守護するためにやって来た」と書かれていたのです。驚いた上人は1125年4月4日、鞍馬寺に参籠し、通夜念仏を唱えます。そして「寅の刻」(午前3時)になると、毘沙門天が現われ、「お前は人間だから人間界を勧進して歩け。わしは天上界を引き受ける」といって「神名帳」を渡してくれました。
このエピソードに因み、毎年4月4日の夕べに「融通念仏会」が行なわれています。そして神名帳の縮刷版が、今もお守りとして授与されているそうです。
最後にもう一人。良忍上人とほぼ同世代の、重怡(じゅうい)上人です。阿弥陀如来の名を唱え続ける念仏を参詣の人々と共に行なった人です。
前回のブログに書いたように、山内には様々なお堂が建っています。本殿金堂に向かう途中にあったのが「転法輪堂」でした。由来がよく分からずスルーしてしまいました。調べてみると、ここには丈六(一丈六尺、約4.8m。坐像なのでその半分)の阿弥陀如来が祀られていると分かりました。重怡上人が祈願した仏像です。
重怡さんは、阿弥陀信仰だけではなく、弥勒菩薩も信仰していました。末法思想が広がった平安後期、56億7千万年後に弥勒菩薩が救いに来てくれるまで経典を書き残しておこう、と写経会を始めたのです。
多くの人々が重怡さんの元に集まり、写経を行ないました。
写経された法華経を筒に入れて埋納した場所を経塚と呼びます。鞍馬山には無数の経塚が残っています。
本殿拡張工事の際見つかった300点以上の経塚遺物は全て国宝に指定されています。その中に、重怡上人の名が刻まれた銅経筒もあります。
(☞ 6.「如法写経会」に関連)
時は流れて…
昭和22年に立教開宗された鞍馬弘教は、三身一体の尊天を本尊とし、宗教や国境や人種の垣根を超えて平和を祈り、進化と向上を願うことを理念としています。
そのモットーは、「月のように美しく、太陽のように暖かく、大地のように力強く」。
太古より山岳修験者が過ごした霊地鞍馬山。様々な歴史をすべて取り込んだうえで、最も原始的な信仰に収斂しているように思われます。
6. 歴史を映し出す祭
「初寅大祭」 通称「鞍馬の初寅」
毘沙門天から福運を授かる
とき:1月最初の寅の日 ところ:本殿金堂
正月(寅の月)の寅の日の寅の刻に毘沙門天が現われたことに因む祭です。厄災を落とし、毘沙門天から福運を授かるため、多くの参詣者が集まります。現在の様子を『鞍馬寺小史』から要約すると…
参詣者は前夜から山に登り、本殿金堂を参拝して「その時」を待つ。
午前3時(寅の刻)、ドラの音を合図に大祭が始まる。人々が真言を唱和する中、聖火が点じられる。燃えさかる炎とともに祈りが最高潮に。
故事に倣い、極寒のさなか、午前3時に毘沙門天に会わんとする人たちが大勢いることに驚きます。
雪が降る日だと、一心に祈る人の髪からまるで髪飾りのようにつららが下がるとか…。
祈りの祭典が終わるころ、夜が明け、続々と初寅詣りの人々が訪れ、夕刻まで賑わいが続くそうです。
魔除け「あうんの虎」、開運招福「お宝札」などが授与されます。
「花供養」
自然に感謝し、本尊の活力を頂く
とき:4月第一日曜から2週間 ところ:境内
鞍馬山に咲く桜は「雲珠(うず)桜」といいます。桜の品種名ではありません。「雲珠」とは平安時代の金銅製の装飾馬具で、火炎の中に宝珠が描かれています。鞍の装飾金具である雲珠と地名の鞍馬との縁で、山を彩る桜を総称してこのように呼ばれています。
「雲珠桜」という言葉は、枕詞のように「鞍馬の山」を冠します。
以下は謡曲『鞍馬天狗』の一節。
花咲かば告げむと言ひし 山里の使いは来たり 馬に鞍、鞍馬の山の雲珠桜…
素敵な響きですね。
江戸時代には雲珠桜の美しさが有名になり、桜の枝を折ることが禁じられました。現在では桜をはじめとする樹木、竹、岩石などの採取が一切禁じられています。この祭が「自然への感謝」を謳っているように、鞍馬山では自然保護の精神が貫かれてきました。だからこそ、前回のブログで紹介した「極相林」や三畳紀・ジュラ紀の岩石を見ることができるのですね。山全体が「自然科学博物苑」とされています。
うららかな4月、祭の期間には生け花・茶事・筝曲・謡曲・舞踊などが奉納されます。とくに中日の法要として催される「花会式」では、本尊である尊天(毘沙門天・千手観音・護法魔王尊)に花や茶を献じるため、本坊(金剛寿命院)から本殿金堂まで華やかなお練りの行列が渡ります。自然に感謝するとともに本尊の活力を頂く祭です。
「五月満月祭(ウエサク祭)」
尊天に自己の目覚めと万物の調和を祈念する
とき:5月の満月の夜 ところ:本殿金堂前庭
秘密の儀式だったものが、昭和29年から一般公開されました。ヒマラヤ山中で5月の満月に修するウエサク祭とも通じるようです。また、東南アジアでも、釈迦の降誕日・悟りを開いた日・入滅日すべてをインド歴2月の満月とする祭(ウェーサカ)が行なわれていますので、それにも関連しているのでしょう。
ミステリアスな祭です。近年、地球のアセンション(次元上昇)が注目されているので、このような祭典に違和感を持たない人も増えていると思います。これが戦後すぐに始まっていたことに驚きます。
この日、天界からひときわ強いエネルギーが注ぎ込まれるといいます。満月の下、本殿金堂前に参列者が灯火を掲げて集まります。浄化のための「地鏡浄業」、励みの瞑想「月華精進」、目覚めの「暁天明覚」という3部構成で進行します。それぞれが、魔王尊(地球の霊王)、千手観音(月の精霊)、毘沙門天(太陽の精霊)に対応した祈りなのでしょう。夜7時に始まり、なんと未明まで続くそうです。
ひとりひとりが、本来もっている清らかな魂を甦らせることにより、すべてが調和し平和がかなう ― 世界平和のために何かスゴイことをするとか、自己を犠牲にして奔走するとか、そういうことではないのですよ、と教えてくれているような気がします。
「竹伐り会式」
京都の夏の風物詩。大蛇に見立てた悪を切り捨て、水に感謝。
とき:6月20日14:00 ~ 15:30 ところ:本殿金堂
中興の祖とされる峯延上人の大蛇退治(☝3で紹介)にもとづく古式ゆかしい豪快な儀式です。
長さ4mほどの太い青竹を雄蛇に見立て、僧兵姿の伐り役・回し役が二人一組となり、山刀で6分割します。(舞楽や読経も行なわれるので、クライマックスの竹伐りは15:00~15:10)
大蛇が分割されて静原に埋められた故事がモチーフとなっています。
江戸時代からは「丹波座」「近江座」という2チームに分かれ、伐る速度を競うようになりました。
「勝利した側の土地が豊作になる」といわれるので、迫力十分です。飛び散った木っ端は魔除けになるそうで、参拝者が競って拾い、お守りにするそうです。
一方、細い青竹も雌蛇に見立てて用意されています。こちらは根がついたまま置かれていて、儀式終了後に山内に植え戻されるのです。「鞍馬山の水を守護します」と誓って逃がされ、閼伽井護法善神として祀られたあの雌蛇を表わしているのです。
この会式は、「悪」を打ち砕き、「善」を育てる祈りを込め、水に感謝する儀式といわれています。
「如法写経会」
連続三日間の写経三昧
とき:8月1~3日 ところ:寝殿(前述「転法輪堂」の向かい)
参加者は7月31日から泊まり込み(!)、翌8月1日から3日まで、早朝5時起床、斎戒沐浴して写経に臨みます。
『般若心経』ではなく『法華経』を書写すること、動物性の膠(にかわ)を含む墨ではなく朱で書くところに特徴があるそうです。
3日目の結願の日、参加者全員が書いたものが巻物に仕立てられ、経筒に納めて埋納されます。
「お申し込みは鞍馬寺まで」とのことです。
参考文献:
鞍馬寺教務部編『鞍馬寺小史』(くらま山叢書, 2007三版)
トム・ケニオン&ジュディ・シオン『アルクトゥルス人より地球人へ』(ナチュラルスピリット, 2019)
国立国会図書館デジタルコレクション『鞍馬蓋寺縁起』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952823/57?tocOpened=1
国立国会図書館デジタルコレクション『都名所図会』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555348?tocOpened=1
『鞍馬・貴船道』(集英社ウィークリー・コレクション16, 2009)
増田潔『京の古道を歩く』(光村推古書院, 2006)