【京都検定】古都学び日和

癒しと気づきに溢れる古都の歴史散歩

【大徳寺 龍源院・瑞峯院】個性豊かな石庭の美

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龍源院 一枝坦

 

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瑞峯院 「独坐庭」 文字通り「独坐」できました

 

臨済宗の大寺院、大徳寺には多くの塔頭がありますが、ほとんどが通常非公開です。その中にあって、通年公開しているのは4つのみ。北派の本庵「大仙院」と南派の本庵「龍源院」、塔頭の「高桐院」と「瑞峯院」です。

 

龍源院瑞峯院の石庭は個性派ぞろい。

早春なのにしぐれる日が多いこの頃、抜けるような青空に「今日だ!」と思い立ち、訪れました。

新型コロナウィルスの影響で、ほぼ独占状態。写真もご自由にと言ってくださいました。

端正な石庭を眺めながら過ごす、静けさと陽光に包まれた贅沢な時間の始まりです。

 

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大徳寺山門(金毛閣)

朱色の大徳寺山門(金毛閣)。千利休が出資して完成したので、楼上に利休の木像が掲げられました。それを咎めた秀吉により利休が切腹に追い込まれた事件はよく知られています。

 

龍源院(りょうげんいん)大徳寺山門の目の前にあります。

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龍源院表門

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龍源院は「洛北の苔寺」と言われる

受付入ってすぐの書院軒先の「滹沱底」(こだてい)

左右の石がセットで「阿吽の石庭」。

京都検定の受験者泣かせは名称の難しさです。

臨済宗の宗祖、臨済禅師の出身地である中国河北省の滹沱河から銘があるそうです。

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方丈へと入ります。方丈とは禅宗寺院の正殿(和尚の住居)のことです。

方丈庭園に腰を下ろす前に「真前」(真ん中の部屋の仏壇)にお参りするのがマナーです。

 

まず南側の広々とした「一枝坦」(いっしだん)から。

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まあるい苔山は「亀島」。白砂は大海原を表しています。右手奥に見えるのが、仙人の住む不老長寿の島「蓬莱山」。

 

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手前にあるのが「鶴島」ですが…

どれが何を表しているかは、知らなくてもよいと思います。全く別のとらえ方をしても良いのでは…? 白砂が大宇宙で、石が惑星とか。まあるい太陽から光線が放たれているとか。

 

「一枝坦」の「坦」の文字は、「ひろい、おおきい、やすらか」を表します。視界に入ったとたんに受けた印象そのものです。「一枝」は、この龍源院を開いた東溪宗牧(とうけいそうぼく)禅師の室号「一枝之軒」から銘されました。

 

伸びやかな「陽」の雰囲気の南庭に対し、方丈北側の「龍吟庭」は固い「陰」のイメージです。「洛北の苔寺」にふさわしく、本来なら青々とした苔が大海原を表しているそうです。

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龍吟庭 杉苔が青々と茂るときにも訪れたい

室町時代の相阿弥の作と伝わります。中央に突出している岩は「須弥山」を表しています。

「この世界は九つの山、八つの海から成っていて、その中心が須弥山」(パンフレットより)で、「魏々としてそびえたち、人間はもちろん、鳥も飛び交うことのできない悟りの極致を形容している」(同)とのこと。

 

最後に、龍源院の中で一番興味があった「東滴壺」(とうてきこ)へ。写真集で見て、コンパクトながら素敵な庭だなあと惹かれていました。                                                       

 

自分で撮ると、なんだか…すみません。ぜひ直接行ってみてください。

我が国で最も小さな、格調高い石庭として有名です。

大河の一滴。最初のポチャリ、をイメージしたものです。                                  

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次に訪ねたのはキリシタン大名として有名な大友宗麟が創建した瑞峯院(ずいほういん)です。大友宗麟は22歳で禅宗僧として得度を受けていました。宗麟の戒名「瑞峯院殿瑞峯宗麟居士」が寺号の由来です。

 

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右手が瑞峯院表門。 奥に見えるのは大慈院(宗麟の姉が創建)で 精進鉄鉢料理の店がある。

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受付からすぐ、井戸を背に綺麗な椿。 

 ピンクの椿を愛でた直後、眼前に広がったのは…

 

 

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大海原そのもの。写真では分かりませんが、キラキラと光る石粒(雲母でしょうか)が無数にあって、陽光に輝く海面のようです。方丈の前庭「独坐庭」です。

 

時刻は正午。誰一人いません。文字通り「独坐」状態で瞑想しました。頭上に太陽が来ていたこともあり、しばらくして‟暑いな…”と思った瞬間、正面からぴゅ~っと爽やかな風が吹いてきました。身体全体がふわりと浮上するような心地よさでした。

 

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石組は蓬莱山(前述)で、大海の荒波が打ち寄せる中、悠々と独坐している様子を表しています。とにかくダイナミックです。昭和を代表する作庭家、重森三玲が作りました。京都には三玲の庭が各所にありますが、どれをとっても造形が大胆で魅力的です。

 

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蓬莱山のその先は、入り江になっていて、茶室に続いています。

橋もかかっていて、本当に水が流れているようです。

 

 

去り難い独坐庭でしたが、もう一つの有名な石庭、方丈裏の「閑眠庭」へ。

こちらも重森三玲の作庭です。

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‟閑眠高臥して青山に対す“の禅語から命じられたそうです。石の配置が十字架を表しているそうですが、私にはどうしても分かりませんでした。(この写真の反対側から見るように案内がありましたが、さっぱりでした…)

 

22歳で得度していた大友宗麟でしたが、晩年にはキリスト教を保護し、フランシスコ・ザビエルについて洗礼を受けたことから十字架がデザインされたとのことです。

 

帰り際、今度は白い椿が見送ってくれました。

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私たちの強さを試すような出来事が連続して起こる世の中。

湧き上がってくる不安を鎮め、心を整えるために、草木も花も岩石も風も太陽も傍にいてくれます。

 

 

参考文献:

龍源院、瑞峯院のパンフレット

京都府歴史遺産研究会編『京都府の歴史散歩(上)』(山川出版社, 2014)

                                                                         

 

【京都検定未出題】中高年で転身したスゴイ人たち その2

奉行所の与力からジャーナリストに転身した神沢杜口(かんざわとこう)

f:id:travelertoearth:20200302193657p:plain今回ご紹介したいのは、病弱だった前半生から一転、80歳を過ぎても健脚を誇った江戸時代の俳人・随筆家の神沢杜口です。

 

森鷗外も触発された『翁草』

神沢杜口―諡(おくりな)は貞幹(ていかん)―は、これまで京都検定に出題されたことはありません。それどころか歴史の教科書にも出てこなかった人物です。

森鷗外を知らないという人はいないと思いますが、かの有名な高瀬舟は、神沢杜口が著した『翁草』(おきなぐさ)から着想を得ているのです。同じく鷗外の歴史小説『興津弥五右衛門の遺書』も『翁草』に載っているエピソードを基にしています。

 

『翁草』は全200巻(!) に及ぶ随筆集です。単なる随想ではなく、歴史・地理・有職故実などを網羅する、百科事典と言ってもよいほどのクォリティ。杜口は入念な取材に基づいて知り得たことを惜しみなく発信する、さしずめ現代なら、人気ブロガーといえるでしょう。

 

人柄を垣間見せるネーミング

奉行所の与力を務める神沢家に養子として入ったので、名字は神沢。俳諧にも造詣が深く、「杜口」はその俳号です。「杜」の字義は「とじる、ふさぐ」ですから杜口は「口をとじる」、つまり寡黙を意味します。

ここからは推測ですが…

もともと病弱であった彼は貝原益軒の『養生訓』を参考にしていました。その貝原益軒の言葉の中に、「無用の言葉を省きなさい。言語を慎むことが、徳を養い、身を養う道である」というのがありました。その教えのとおり、口を慎み、五・七・五の調べに思いを込めたのではないでしょうか。

 

そして随筆集のタイトルとなった翁草とは…。どのような思いでこのタイトルをつけたのでしょう。

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オキナグサは本州、四国、九州の日当たりのよい草原や林縁に生える多年草です。花後にできるタネに白く長い毛があり、そのタネが密集して風にそよぐ姿を老人の白髪に見立てて「オキナグサ(翁草)」と呼ばれているといわれます。

『みんなの趣味の園芸』より

https://www.shuminoengei.jp/m-pc/a-page_p_detail/target_plant_code-1009

 

『翁草』の前半100巻を完成させたのが62歳のときですから、杜口は自らを白い綿毛をつけた痩果になぞらえたのでしょうか。この白い綿毛が風にのってふわふわと飛んでいく軽やかさが、京都で18回も棲家を変えた、彼の執着のない生き方を象徴しているように思えます。

 

また、鎌倉時代を代表する随筆『徒然草』(つれづれなるままに書きつけたもの)から分かるように「草」は原稿、草稿を表わします。4世紀も前に書かれた、知識と美意識にあふれる名随筆にあやかり、翁草と命名したのかもしれません。想像が膨らみます。

 

驚きの経歴

~神沢杜口 江戸中期(1710-1795) 略歴~

京都東町奉行所の与力(約20年間努める)

40歳の時、病弱を理由に辞職。文筆家になる。

62歳、随筆『翁草』100巻完成

78歳、天明の大火で『翁草』の追加原稿100巻焼失!

もう一度取材をやり直し、大火のルポも兼ねて書き直す。

79歳、マラリアに罹るも回復

80歳を過ぎても各地を取材旅行

82歳 焼失していた原稿100巻を再度完成させる

85歳 天寿を全う 

 

京都で生まれた彼(通称、与兵衛)は、早くも1719年(9歳くらい)に俳諧と出会います。与力をしていた神沢家の養子となり、後に養父の娘と結婚して、与力を継ぎました。この時代の「与力」は、奉行所の配下で、部下として「同心」をもっていました。同心はいわば警察官ですから、与力は警察署長クラスの管理職といえます。

 

歌舞伎『白波五人男』の一人のモデルとなった実在の盗賊、日本左衛門。その手下である中村左膳を江戸に送還する際、二人してほろりと涙をこぼしたというエピソードが残っています。天下の悪人と心を通わせた杜口には、四角四面の役人ではない人情味を感じます。この後、杜口は目付に出世します。

 

公務員として出世した杜口(換算すると年棒1千万円以上)ですが、40歳のとき、病弱を理由に辞職します。安定した地位を捨て、俳諧に遊ぶと共に、文筆業に専念することにしたのです。

 

44歳で妻に先立たれますが、生涯独身を通し、18回も京都市中を転居しながら、取材活動を行なっていたようです。精魂込めて情報収集し、綿密な原稿を書きため、還暦に近づいた頃から『翁草』として順次発表しました。他の著作物リストを見ても、60歳を過ぎてからのものばかりです。

 

『翁草』100巻を発表した後、さらに100巻を書き上げたところで、1788年の天明の大火。苦労の結晶である原稿すべてが灰燼に帰したのです。天明の大火は皇居をも焼き尽くし、焼失家屋18万余に達する大災害でした。このとき杜口、78歳。

 

普通ならここで精神的に折れてしまい、肉体的にも弱っていくところです。しかし杜口は違いました。娘からの同居の勧めにも応じず、一人暮らしを続けます。そして、大火の被害の実地調査を綿密に行ない、いわば被災地ルポルタージュを加えて、82歳で100巻の書き直しを完了したのです。随筆家というより、半端ではないジャーナリスト魂をほうふつとさせます。

 

そこに至るまでに驚愕の事実があります。79歳のときマラリアに罹患したのです。危篤となり、病床に親族が集まったのですが、奇跡的に回復したのです。その後80歳を過ぎてなお、1日に20~28kmも歩いて取材していたというのですから、驚きです。いつ倒れてもよいように、迷子札を付けて旅に出ていたとか。

 

40歳までは病弱だった杜口なのに、これほど充実した体力・気力を備えたのには秘訣がありそうです。

 

杜口の人生哲学 

杜口の言葉の中に、現代の私たちが学ぶべき人生哲学が込められています。

「遠きが花の香(かおり)」

杜口には5人の子がありましたが、4人は死亡し末娘だけが生き残りました。この末娘に婿養子を迎え、孫が生まれても、杜口は一人暮らしを貫きました。同居を断る心境を表わす言葉です。密接になり過ぎて互いを疎ましく思うよりも、たまに会う方が、嬉しい気持ちになれるということでしょう。ときどき、風にのってふわりと花の香りが漂ってきたときのように。共依存しない、ゆるやかな関係こそ幸せだと教えてくれます。

 

「仮の世の仮の身には 仮のすみかこそよかれ」

高収入で安定していた公務員の職を辞して、文筆に人生をかけた後半生。

いわゆる年金のような収入があったとはいえ、報酬の期待できない世界に身ひとつで飛び込み、京都市中で18回も引っ越した杜口。「その心は?」と問われたときの言葉でしょうか。

広い土地に大きな屋敷を建てて「根を下ろした」ところで、所詮、限りある人生。執着を捨てることで、自由に軽やかに生きることができたのでしょう。この言葉を読んだとき、世阿弥の「住するところなきを、まづ花と知るべし」(『風姿花伝』 第七)を思い出しました。仕事であれ住居であれ、一つの場所に安住しないことが大事だという言葉は、「仮のすみか」しかない者に勇気と希望を与えてくれます。

 

「我独り、心すずしく楽しみ暮らすゆえに、気滞らず。気滞らねば百病発せず」

杜口は貝原益軒の『養生訓』に従い、実践した人です。その結果、貝原益軒の言葉「短命ならんと思う人、かえって長生きする」を地で行っています。それには「気」を滞らせないことが大切だというのです。まさに「病は気から」です。

杜口は俳諧の他、謡曲、碁、香道も嗜みました。ジャーナリストとしての彼には鬼気迫るものを感じますが、それだけではなく、好きなものを楽しむ心の余裕があったということです。「心すずしく楽しみ暮らす」…素敵な言葉ですね。

 

「辞世とはすなわち迷ひ ただ死なん」

辞世を遺さない、という辞世を用意していたところにクスッと笑ってしまいます。

歩いて、書いて、また歩き…の人生。後世に名を残そうという欲とは無縁のようです。バランスをとるかのように、余技を楽しみながら軽やかに人生を味わい尽くし、穏やかに大往生したのでした。翁草の白い綿毛がふわりと風に乗っていくように。

杜口の墓は、慈眼寺(出水通七本松東入ル)にあります。

 

主な参考文献:

立川昭二『足るを知る生き方』(講談社, 2003)

帯津良一『長生きできる? 江戸時代の常識にとらわれない生き方』(AERA.dot., 2019.1.25)

 

【鞍馬寺】歴史編:宇宙人×古神道×密教×浄土信仰

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積雪で鼻が折れた先代に代わり、令和元年に新設された天狗

鞍馬寺の魅力は、雰囲気を直接体感するだけで充分かもしれませんが、その歴史を知ることで、さらに魅力が深まります。神仏と通じた人々の営みによって積み重ねられた歴史を辿ることも、ワクワクする体験の一つだと思います。

 

前回は深山幽谷の神聖な空気を味わった「体感編」でした。今回は「歴史編」として、鞍馬寺が霊地として現在も信仰を集める由縁を紹介します。

 

~目次~

1.有史以前:魔王尊降臨

2奈良時代毘沙門天現わる

3平安時代初期:千手観音を祀る

4. 鞍馬山にやってきたスーパースターたち

5.変遷を経て鞍馬弘教

6. 歴史を映し出す祭

 

1.有史以前:魔王尊降臨

さまざまな変遷を経た鞍馬寺。最初の出来事は、護法魔王尊の登場です。

登場のしかたがスゴイです。『鞍馬山小史』から、抜粋します。

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「六百五十万年前の出来事といいますから、人類発生に先立つこと百五十万年以上ということになります。

そのとき、天も地もすさまじい音をたて、無数の火の粉がぱらぱらと降ってきました。中天には巨大な焔のかたまりが炎々と燃えさかりながら渦を巻いています。その中心から、透きとおる白熱の物体が回転しながら舞い降りてきました。〈中略〉 宇宙の大霊である魔王尊が、このとき金星から地球の霊王として鞍馬山上に天下ったのでした」(『鞍馬山小史』 p5)

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「魔王尊と書きますと、悪魔の首領のように誤解されかねませんが、実は、あらゆる魔障を征服し屈従させて善魔に転向させる大王だから、魔王尊と申し上げるのです。つまり、破邪顕正のお力を授けてくださる守護神と思っていただければよいでしょう」(同 p9)

 

近年、疲弊した地球のアセンション(次元上昇)を導く存在として注目される「サナート・クマラ」は、この魔王尊だと言われています。サナート・クマラからのメッセージを伝える『アルクトゥルス人より地球人へ』にも、鞍馬寺への降臨が記されています。彼曰く、六百五十万年前ではなく、一千万年前のことだそうです。

 

「そのころの地球は地質学的な激動の陣痛をくぐり抜け、ようやく一部の地域が安定してきたところでした。私はその様子をしばらく見守ってから、この初々しい惑星に降り立ってみることにしました。そこで母船よりもずっと小型の着陸船を、あなたがたがいま日本と呼んでいる土地の鞍馬山の上に据え付けました。私が降り立ち、飛び立ったその地点に、今では小さなお堂が建っています」 (p65)

 

この小堂こそ、前回のブログでも紹介した「奥の院魔王殿」です。

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二億六千年前の海底が隆起した石灰岩の上に建つ魔王殿。ここに魔王尊=サナート・クマラが降り立った。

サナート・クマラが乗ってきた着陸船を象ったオブジェもありました。「本殿金堂」のすぐ脇、奥の院への入口に建つ「金剛寿命院」の庭にある立て砂がそうです。銀閣寺の「向月台」とそっくり同じ形をしています。(銀閣寺の向月台はこの伝説とは無関係のようです)

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魔王尊=サナート・クマラが乗ってきた宇宙船を模した立て砂(金剛寿命院の瑞風庭)

この「金剛寿命院」は、鞍馬弘教の本坊にあたります。鞍馬弘教は、三身一体の尊天(毘沙門天・千手観音・護法魔王尊)を本尊としています。

地球と人類の進化を促すため、宇宙のかなたからやってきて、地球の霊王となった魔王尊。5月の満月の宵には、天界と地上との間に通路が開けるので、この宵を期して魔王尊を仰ぐ祭典が行なわれています。

(☞ 6.「五月満月祭」に関連)

 

2奈良時代毘沙門天現わる

寺院の開基は鑑禎(がんちょう)上人、創建は770年。平安遷都の24年前のことです。

唐から苦難の末に平城京にやってきた鑑真和上をご存知でしょう。鑑禎さんは、あの鑑真和上にお伴して来日した高弟の一人です。最年少(二十余歳)だったそうです。言葉の不自由な異国で、鑑真に仕えながら、唐招提寺で伝教していました。

 

鑑真没後7年目、鑑禎は夢の中で「山背国(のちに山城国と表記)北方に霊地あり」というお告げを得て、鞍馬山に入ります。その夜、山中で鬼に襲われますが、倒れた朽木が鬼を押しつぶし救われました。

 

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翌朝、その場所に毘沙門天像を見つけます。鑑禎は「仏法護持の像が降臨された」と喜んで草庵を結び、その像を安置しました。

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毘沙門天霊夢に現われたのが、正月(寅の月)の寅の日の寅の刻だったことに因み、現在も盛大な祭が行なわれています。

(☞ 6.「初寅大祭」に関連)

 

この開創説話は、『鞍馬蓋寺縁起(あんばがいじえんぎ)』だけに書かれていて、他所には見当たらないそうです。では、他の書物ではどのように鞍馬寺開創は語られているのでしょうか? それが次に挙げる平安時代の出来事です。

 

3平安時代初期:千手観音を祀る 

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平安遷都に伴い、東寺の建設責任者「造東寺長官」となった藤原伊勢人(ふじわらのいせんど)という人がいました。東寺は正式名「教王護国寺」から分かるように、官寺です。自らが信仰する観音菩薩を祀る私寺を建てたいと願っていると、夢に現れた貴船明神によって、霊山に伽藍を建てるよう告げられます。

 

道も分からない伊勢人は白い愛馬に鞍をかけ、霊山に導くよう頼みました。「鞍」を置いた「馬」が導いたので、後に鞍馬山と呼ばれるようになったのです。

(☞ 6.「花供養」に関連)

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辿り着いた場所には、前述の毘沙門天がすでに祀られています。とまどった伊勢人でしたが、「毘沙門天も観音も同体」と夢で童子に諭されます。そこでお堂を建て、毘沙門天と共に千手観音を祀りました。8世紀末、796年のことです。

 

説話集『今昔物語』や歴史書扶桑略記』では、この経緯をもって鞍馬寺創建としています。

(ちなみに「扶桑」とは日本の異称)

 

鞍馬寺には国宝の毘沙門天があります(霊宝殿*に安置)。左手を額にかざして、国を見守っている独特の姿です。1126年の火災で焼失した直後の再興像と伝わりますが、もっと古い可能性もあるそうです。なんと胎内に聖観音銅像が納められているそうです。毘沙門天も観音も同体」という創建時のお告げを再現したのですね。

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通称「鎮護国家毘沙門天

  

*注:霊宝殿は冬期閉鎖。現在この毘沙門天奈良国立博物館に出張中(2020年3月22日まで特別展にて会えます)。

*追記:奈良国立博物館は新型コロナ肺炎の影響で3月15日まで臨時休館中。16日以降についてもHPなどで確認してください。

 

 

千手観音が祀られてから約百年後の9世紀末、東寺の僧だった峯延(ぶえん)がやってきて伽藍を整えたので、真言密教色が強くなりました。

この峯延上人が護摩の秘法をおこなっていたとき、雄の大蛇に呑まれそうになります。

 

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しかし上人が尊天の真言(呪文)を唱えると、大蛇は呪縛されて動かなくなりました。つがいの雌の大蛇もいたのですが、鞍馬山の水を絶やさないことを約束させ、逃がしてやりました。

話を聞いた寺の管理人(前述の藤原伊勢人の孫)のもと、雄の大蛇は切り刻まれ、静原山へ捨てられました。雌の方は「閼伽井護法善神」として本殿金堂の東側に祀られました。現在も「閼伽井護法神社」として残っています。

(☞ 6.「竹伐り会式」に関連。この説話が見事に反映された祭で驚きます)

 

4. 鞍馬山にやってきたスーパースターたち

比叡山延暦寺の開祖、最澄が唐に渡る前に、参籠したと伝わります。最澄が刻んだ不動明王が、僧正ガ谷不動堂に安置されています。前回書きましたが、この辺りは霊気がみなぎっていました。

 

◆峯延上人の大蛇退治で有名になってからは、さまざまな人たちが参詣しました。

白河上皇をはじめ多くの貴人、清少納言菅原孝標の娘(『枕草子』や『更級日記』に描写)、念仏を庶民に広めた空也、さらに融通念仏に発展させた良忍(エピソード後述)などなど。

信仰の対象というだけでなく、修行の場であり、宗教的インスピレーションを得る霊場だったことが分かります。

 

毘沙門天を祀る鞍馬寺は、武運長久を願う武士たちの信仰も集めました。

なんと初代征夷大将軍坂上田村麻呂が奉納した剣や鐙(あぶみ)が寺宝として遺されています。

そして牛若丸。火災で残欠しかありませんが、義経となって着用した甲冑や太刀も鞍馬寺に現存しています。

室町時代には歴代の足利将軍が(どうやら武運を頼むというより、応仁の乱や戦国時代の動乱と荒廃を逃れた、という感じで)滞在しています。

戦国時代の武田信玄は、「虎の巻の法」による戦勝祈願へのお礼状を送っています。また、豊臣秀吉・秀頼親子、徳川家康らも信仰を寄せていたようです。

 

江戸時代に入り平和な世の中になったので、武運長久の願掛けは影をひそめましたが、一般大衆からの信仰は盛んになりました。それが脈々と今日まで続いているのです。

 

5.変遷を経て鞍馬弘教

初期の鞍馬寺真言密教が強かったのですが、牛若丸がやってくる少し前、1135~1140年頃には天台宗として定まりました(天台宗にも「台密」といって密教の系統があります)。

しかし密教一辺倒ではありませんでした。森羅万象の神々を敬う古神道の要素も残しつつ、浄土信仰(念仏によって来世の幸福を願う)も融合させていきました。

 

ここでご紹介したいのが、融通念仏の祖、良忍上人です。平安時代の後期、大原の来迎院(天台宗)で念仏三昧の生活を送っていました。「融通」という言葉から分かるように、融通念仏とは、一人で念仏を唱えるよりも、大勢で唱えて「互いに徳を融通し合う」ことを提唱します。ご利益がその人数分倍増するからです。

 

良忍さんは、念仏を唱和した証として「名帳」に名を記すことも説いて回りました。これに賛同した鳥羽上皇をはじめ公家や庶民も署名をしました。ある日の早朝、青衣の僧がやってきて署名をしたかと思うと、さっと姿を消したのです。誰だと思いますか…???

 

不思議に思った上人が名帳を開いてみると、「念仏を百遍きかせてもらった鞍馬寺毘沙門天王が、念仏の結縁者たちを守護するためにやって来た」と書かれていたのです。驚いた上人は1125年4月4日、鞍馬寺に参籠し、通夜念仏を唱えます。そして「寅の刻」(午前3時)になると、毘沙門天が現われ、「お前は人間だから人間界を勧進して歩け。わしは天上界を引き受ける」といって「神名帳」を渡してくれました。

 

このエピソードに因み、毎年4月4日の夕べに「融通念仏会」が行なわれています。そして神名帳の縮刷版が、今もお守りとして授与されているそうです。

 

 

最後にもう一人。良忍上人とほぼ同世代の、重怡(じゅうい)上人です。阿弥陀如来の名を唱え続ける念仏を参詣の人々と共に行なった人です。

 

前回のブログに書いたように、山内には様々なお堂が建っています。本殿金堂に向かう途中にあったのが「転法輪堂」でした。由来がよく分からずスルーしてしまいました。調べてみると、ここには丈六(一丈六尺、約4.8m。坐像なのでその半分)の阿弥陀如来が祀られていると分かりました。重怡上人が祈願した仏像です。

 

重怡さんは、阿弥陀信仰だけではなく、弥勒菩薩も信仰していました。末法思想が広がった平安後期、56億7千万年後に弥勒菩薩が救いに来てくれるまで経典を書き残しておこう、と写経会を始めたのです。

 

多くの人々が重怡さんの元に集まり、写経を行ないました。

写経された法華経を筒に入れて埋納した場所を経塚と呼びます。鞍馬山には無数の経塚が残っています。

 

本殿拡張工事の際見つかった300点以上の経塚遺物は全て国宝に指定されています。その中に、重怡上人の名が刻まれた銅経筒もあります。

(☞ 6.「如法写経会」に関連)

 

時は流れて…

昭和22年に立教開宗された鞍馬弘教は、三身一体の尊天を本尊とし、宗教や国境や人種の垣根を超えて平和を祈り、進化と向上を願うことを理念としています。

そのモットーは、「月のように美しく、太陽のように暖かく、大地のように力強く」。

 

太古より山岳修験者が過ごした霊地鞍馬山。様々な歴史をすべて取り込んだうえで、最も原始的な信仰に収斂しているように思われます。

 

6. 歴史を映し出す祭

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「初寅大祭」 通称「鞍馬の初寅」 

毘沙門天から福運を授かる

とき:1月最初の寅の日  ところ:本殿金堂

正月(寅の月)の寅の日の寅の刻に毘沙門天が現われたことに因む祭です。厄災を落とし、毘沙門天から福運を授かるため、多くの参詣者が集まります。現在の様子を『鞍馬寺小史』から要約すると…

 

参詣者は前夜から山に登り、本殿金堂を参拝して「その時」を待つ。

午前3時(寅の刻)、ドラの音を合図に大祭が始まる。人々が真言を唱和する中、聖火が点じられる。燃えさかる炎とともに祈りが最高潮に。

 

故事に倣い、極寒のさなか、午前3時に毘沙門天に会わんとする人たちが大勢いることに驚きます。

雪が降る日だと、一心に祈る人の髪からまるで髪飾りのようにつららが下がるとか…。

祈りの祭典が終わるころ、夜が明け、続々と初寅詣りの人々が訪れ、夕刻まで賑わいが続くそうです。

 

魔除け「あうんの虎」開運招福「お宝札」などが授与されます。

 

 

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「花供養」 

自然に感謝し、本尊の活力を頂く

とき:4月第一日曜から2週間  ところ:境内

鞍馬山に咲く桜は「雲珠(うず)桜」といいます。桜の品種名ではありません。「雲珠」とは平安時代の金銅製の装飾馬具で、火炎の中に宝珠が描かれています。鞍の装飾金具である雲珠と地名の鞍馬との縁で、山を彩る桜を総称してこのように呼ばれています。

 

「雲珠桜」という言葉は、枕詞のように「鞍馬の山」を冠します。

以下は謡曲鞍馬天狗』の一節。

 花咲かば告げむと言ひし 山里の使いは来たり 馬に鞍、鞍馬の山の雲珠桜…

素敵な響きですね。

 

江戸時代には雲珠桜の美しさが有名になり、桜の枝を折ることが禁じられました。現在では桜をはじめとする樹木、竹、岩石などの採取が一切禁じられています。この祭が「自然への感謝」を謳っているように、鞍馬山では自然保護の精神が貫かれてきました。だからこそ、前回のブログで紹介した「極相林」や三畳紀ジュラ紀の岩石を見ることができるのですね。山全体が「自然科学博物苑」とされています。

 

うららかな4月、祭の期間には生け花・茶事・筝曲・謡曲・舞踊などが奉納されます。とくに中日の法要として催される「花会式」では、本尊である尊天(毘沙門天・千手観音・護法魔王尊)に花や茶を献じるため、本坊(金剛寿命院)から本殿金堂まで華やかなお練りの行列が渡ります。自然に感謝するとともに本尊の活力を頂く祭です。

 

 

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「五月満月祭(ウエサク祭)」 

尊天に自己の目覚めと万物の調和を祈念する

とき:5月の満月の夜  ところ:本殿金堂前庭

秘密の儀式だったものが、昭和29年から一般公開されました。ヒマラヤ山中で5月の満月に修するウエサク祭とも通じるようです。また、東南アジアでも、釈迦の降誕日・悟りを開いた日・入滅日すべてをインド歴2月の満月とする祭(ウェーサカ)が行なわれていますので、それにも関連しているのでしょう。

 

ミステリアスな祭です。近年、地球のアセンション(次元上昇)が注目されているので、このような祭典に違和感を持たない人も増えていると思います。これが戦後すぐに始まっていたことに驚きます。

 

この日、天界からひときわ強いエネルギーが注ぎ込まれるといいます。満月の下、本殿金堂前に参列者が灯火を掲げて集まります。浄化のための「地鏡浄業」、励みの瞑想「月華精進」、目覚めの「暁天明覚」という3部構成で進行します。それぞれが、魔王尊(地球の霊王)、千手観音(月の精霊)、毘沙門天(太陽の精霊)に対応した祈りなのでしょう。夜7時に始まり、なんと未明まで続くそうです。

 

ひとりひとりが、本来もっている清らかな魂を甦らせることにより、すべてが調和し平和がかなう ― 世界平和のために何かスゴイことをするとか、自己を犠牲にして奔走するとか、そういうことではないのですよ、と教えてくれているような気がします。

 

 

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「竹伐り会式」  

京都の夏の風物詩。大蛇に見立てた悪を切り捨て、水に感謝。

とき:6月20日14:00 ~ 15:30  ところ:本殿金堂

中興の祖とされる峯延上人の大蛇退治(☝3で紹介)にもとづく古式ゆかしい豪快な儀式です。

 

長さ4mほどの太い青竹雄蛇に見立て、僧兵姿の伐り役・回し役が二人一組となり、山刀で6分割します。(舞楽や読経も行なわれるので、クライマックスの竹伐りは15:00~15:10)

大蛇が分割されて静原に埋められた故事がモチーフとなっています。

 

江戸時代からは「丹波座」「近江座」という2チームに分かれ、伐る速度を競うようになりました。

 

「勝利した側の土地が豊作になる」といわれるので、迫力十分です。飛び散った木っ端は魔除けになるそうで、参拝者が競って拾い、お守りにするそうです。

 

一方、細い青竹雌蛇に見立てて用意されています。こちらは根がついたまま置かれていて、儀式終了後に山内に植え戻されるのです。「鞍馬山の水を守護します」と誓って逃がされ、閼伽井護法善神として祀られたあの雌蛇を表わしているのです。

 

この会式は、「悪」を打ち砕き、「善」を育てる祈りを込め、水に感謝する儀式といわれています。

        

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『都名所図会』巻六に描かれた「鞍馬の竹伐」 (国立国会図書館デジタルコレクション)

 

 

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「如法写経会」          

連続三日間の写経三昧

とき:8月1~3日  ところ:寝殿(前述「転法輪堂」の向かい)

参加者は7月31日から泊まり込み(!)、翌8月1日から3日まで、早朝5時起床、斎戒沐浴して写経に臨みます。

 

『般若心経』ではなく『法華経』を書写すること、動物性の膠(にかわ)を含む墨ではなく朱で書くところに特徴があるそうです。

 

3日目の結願の日、参加者全員が書いたものが巻物に仕立てられ、経筒に納めて埋納されます。

「お申し込みは鞍馬寺まで」とのことです。

 

 

参考文献:

鞍馬寺教務部編『鞍馬寺小史』(くらま山叢書, 2007三版)

トム・ケニオン&ジュディ・シオン『アルクトゥルス人より地球人へ』(ナチュラルスピリット, 2019)

国立国会図書館デジタルコレクション『鞍馬蓋寺縁起』 

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952823/57?tocOpened=1

国立国会図書館デジタルコレクション『都名所図会』

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555348?tocOpened=1

『鞍馬・貴船道』(集英社ウィークリー・コレクション16, 2009)

増田潔『京の古道を歩く』(光村推古書院, 2006)

            


 

 

 

【鞍馬寺】体感編:山の霊気を呼吸し、宇宙エネルギーを浴びる

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2月4日、立春。3月並みの穏やかな陽気に誘われ、鞍馬寺へ。国宝の仏像に会える霊宝殿は冬期閉鎖中ですが、(新型肺炎の影響もあり)観光客が極めて少ないこの時期、鬱蒼とした自然の「厳しさ」と「優しさ」の両方を肌で感じることができました。

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今回のブログでは、鞍馬~貴船に抜けるルートを歩いて実際に見たもの感じたものを紹介します。

(わずか2kmの行程ですが、アップダウンが結構きついのと、山の霊気や美しさにいちいち足を止めていたので、3時間かかりました)

 

 ~体感編:目次~

 1.山門~ケーブル山上駅~本殿金堂 

  ・弁財天社の水琴窟  

  ・本殿金堂と金剛床

 2.神秘の奥の院 

  ・息つぎの水  

  ・背比べ石  

  ・深海底だった地層 

  ・木の根道

  ・僧正ガ谷不動堂と義経堂  

  ・奥の院魔王殿

 3.魔王殿~西門(貴船川)

  ・極相林

  ・まとめ

 

1.仁王門(山門)~ケーブル山上駅~本殿金堂

叡電の終点「鞍馬」駅から参道を上り、山門へ。ご覧のように誰もいません。

御所の真北12kmにあたる鞍馬寺は、平安京の北方守護の寺院でした。四天王の北方守護神、毘沙門天を祀っています。寅の月の寅の日の寅の刻に降臨したことに因み、阿吽の虎が出迎えてくれます。

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仁王門(山門)へ

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毘沙門天の使い、阿吽の虎。吽形の虎がお茶目。

山門をくぐり、さらに階段を進むとケーブル乗り場です。

清少納言が『枕草子』で、「近うて遠きもの、鞍馬のつづらをり(九十九折り)といふ道」と挙げています。平安貴族の女性たちが急勾配の九十九折り道を上り下りしていた、と『更級日記』にもあります。

九十九折りは、山門から本殿金堂まで、曲がりくねった1,058mの道ですが、私はケーブル200m+徒歩456mのショートカットで。

 

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この先にケーブル乗り場

密教の法具、三鈷杵(さんこしょ)をご存知ですか?

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鞍馬山はちょうど三鈷杵の先の部分に似ているそうです。

本殿金堂のあるところが真ん中の尾根で、その両側に谷があり、さらに外側に尾根が走っているそうです。

ケーブル乗り場のある「普明殿」にジオラマがありました。

 

ケーブルを降りると多宝塔があり、そこからすでに深山幽谷の雰囲気を醸し出す道を進んでいきます。

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ケーブル山上駅「多宝塔」

◆弁財天社の水琴窟

途中、弥勒堂、転法輪堂などがありますが、ぜひ「巽の弁財天社」にお参りしてください。

小さなお堂ですが、そこに耳を寄せると、「水琴窟」の清らかな音が聞こえてきます。弁天さまが奏でる琵琶の音かと思うほど幻想的です。庭園や茶室にある水琴窟は竹の筒に耳を当てるものが多いですが、そのように仕組まれたものではなく、水滴が石をうち反響する自然の音だと思います。変な格好で張り付いている私をみた高齢のご夫婦に「なんですか?」と尋ねられました。そのご夫婦も長いこと聴き入っていられました。

 

本殿金堂と金剛床

鞍馬弘教総本山の「寺」とはいうものの、ここは宗派の垣根を越え、神道とも融合し、さらに森羅万象を司る「宇宙の大霊」を本尊としているスケールの大きな聖地です。中心道場は「本堂」ではなく「本殿金堂」といい、神社と寺院を合わせたような名称です。(真正面撮影は遠慮しました)

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このお堂の中で入手した『鞍馬寺小史』の最終ページに、このように書かれています。

鞍馬山の仁王門は常に万人に向けて開かれています。〈中略〉 口称念仏をしようと、お題目を唱えようと、祝詞をあげようと、はたまたアーメンと唱えようとご自由です」

 

宇宙の大霊は尊像として具現化され、本殿金堂の内々陣に祀られています。60年に一度、丙寅(ひのえとら)の年に開帳される秘仏です(前回は1986年なので、次は2046年)。

 毘沙門天太陽の精霊(光の象徴)…中央

 千手観音の精霊(慈愛の象徴)…向かって右

 護法魔王尊大地の霊王(活力の象徴)…向かって左

これら三尊を合わせて、三身一体(さんじんいったい)の「尊天」としています。

 

薄暗いお堂の中で一人瞑想する外国人の姿がありました。私にはお堂の奥の厨子の中に閉じこもっているご本尊のイメージは湧きませんでした。やはり自然の精霊を感じたくて、外に出ました。

 

本殿金堂の前庭に、六芒星のマークを象った敷石があります。金剛床です。おそらく(私の解釈ですが)三身一体の尊点を正三角形で表し、それが天から降りてくるのと、天に昇っていくのをシンボル化しているのではないでしょうか。

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六芒星の真ん中に立って、ちょうど頭上に輝く太陽の光を全身で浴びました。そして、本殿金堂を背中にして南を向くと、視界が大きく開けます。左手の比叡山をはじめ、ぐるりと山並みが続いています。しばらく瞑想していると、爽やかな風がさあ~っと通り過ぎ、遠くから梵鐘の音がゴ~ンと響いてきました。じんわり沁み込むような深い音色です。                            

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正面は龍ヶ岳(登山した方のブログを見ると、あちらからも鞍馬山が見えるそうです。当たり前か…)

 

2.神秘の奥の院

本殿金堂から864m先の魔王殿を目指します。

             

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なかなかの急階段を上り、以降、上りが続きます。途中、ジュラ紀の地層が露出しているところがありました。

ジュラ紀:2億1200万年前~1億4300万年前。恐竜が出現した頃 『広辞苑』より)

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息つぎの水    

俗にいう「鞍馬天狗」に兵法を習った牛若丸(のちの義経)。後述の僧正ガ谷が道場で、そこに向かう途中、ここで息つぎをしたそうです。今も枯れることなく清水が湧いています。

      

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背比べ石

7歳で鞍馬山に入り、この地を駆け巡った牛若丸。16歳で鞍馬山を後にし、義経と名乗ります。

名残を惜しんで背比べをしたという石。1.2mなので、幼かった自分と今の自分を比べたのかもしれませんね。

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深海底だった地層              

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この辺りから三畳紀の地層が見えてきます。説明板には「三畳紀前期、深海底に静かに堆積した」とあります。三畳紀は、前述のジュラ紀のひとつ前の区分です。『広辞苑』には、2億4700万年前以降で、アンモナイトが全盛期だったとあります。強烈な地殻変動が起こって、隆起したのですね。

 

 

木の根道

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背比べ石付近から次の僧正ガ谷にかけての一帯は、地盤が固く土壌層が薄いため、杉の根が地表に這っています。なるべく踏まないように、と注意書きがありましたので、立ち入らず写真だけにしました。

 

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道中ずっとついてきてくれた太陽。

ここではとくに神々しさが増して見えました。

 

僧正ガ谷不動堂と義経

この一帯は牛若丸が大天狗「僧正坊」に兵法を習った場所です。(ちなみに愛宕山も天狗で有名ですが、そちらは通称「太郎坊」) 不動堂には最澄が刻んだと伝わる不動明王が祀られています。

不動明王大日如来(宇宙の根源)の化身とされている仏です。

 

すぐそばに小さな祠があります。義経堂です。兄の頼朝に追われて奥州で敗死した義経の魂は、この懐かしい鞍馬山に帰ってきたと伝わります。鞍馬山では義経を「遮那王」として神格化し、ここに祀っています。遮那とは毘盧遮那(ビルシャナ。奈良の大仏がそうです)のことで、やはり宇宙の根源(=大日如来)の象徴です。

 

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僧正ガ谷の樹林

この写真を撮った後、驚くことがありました。風ひとつなかったのに、突如木々の梢がゆっさゆっさと揺れるほどの風が吹き始めました。「あ、天狗さんだ」と思ったとき、「ギギーッ、ギギーッ」と軋むような音が響いてきます。普通に木が揺れるだけでは聞いたこともないような、圧力が加わって大枝がたわんで擦れるような、そんな音です。響き渡る音を辿って見上げても、生き物の姿は見えません。「ギギーッ」は断続的に響いてきます。

少し怖くなって(人っこひとりいないので)、先に進むことにしました。すると、風も「ギギーッ」音もぴたりと止みました。あ~びっくりした、と独り言。

 

奥の院魔王殿

ここからは下り坂を進みます。そしてついに、魔王殿が見えてきました。

鞍馬寺で最重要の聖地です。ここに護法魔王尊が降臨したと伝わります。

 

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手前の拝殿から参拝

鞍馬山小史』から抜粋します。

奥の院魔王殿は、累々たる奇岩の上にあります。この岩が水成岩でサンゴやウミユリなどの化石を含んでいますので、二億六千万年前に南洋の海底にあったものが、永い年月をかけて北上し隆起したことがわかります。そしてこの一帯が実は磐座なのです」 (p9)

 

魔王尊は地球の霊王として、地球全体や人類、生類一切の進化を促すそうです。

「魔王尊のはっきりしたお姿は誰にもわかりません。太古に金星から降臨したまま、〈中略〉変幻自在さまざまなお姿を現すからです」 (p10)

 

本殿金堂に祀られる秘仏のお前立は、頭に兜巾を被った行者風のいでたちで、長い髭をはやしていますが、なんと背中に羽根がついています。変幻自在の姿のひとつが天狗なのでしょうか。

 

(余談ですが、鞍馬寺の天狗はヘブライ人だという説を聞いたことがあります。古代イスラエルには山岳信仰があり、それが日本に伝わったというのです。天狗は兜巾を被り、「虎の巻」を持つ姿で描かれることがありますが、ヘブライの修行者も兜巾と似たものを被り、「トーラースクロール」を持つというのです。ダジャレみたい。確かに、六芒星ダビデの星と同じです。もしかして、日本から古代イスラエルに伝わったのでは?)

 

3.魔王殿~西門(貴船川)  最後の下り坂573m

魔王殿には手前にある拝所(屋根付きで、椅子が並ぶ)からお参りします。写真で見えるように、魔王殿に張られた幕には天狗の団扇のようなマークがついています。しかし、これは菊の花びらを横からみたものだそうです。

「左きふねぐち」の道標に従い、ここから最後の下り坂573m。かなり急です。

 

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こんな道や

 

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こんな道を下りていきます

極相林

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周囲は「極相林」と呼ばれる一帯。説明板を要約するとこうなります👇

裸地 ➡ 草 ➡ 陽樹 ➡ 陽樹の下に陰樹 ➡ 陰樹が陽樹を追いやる ➡ 陰樹だけで安定

この期間200~310年

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鞍馬山で、ここが陰樹だけの極相林。カシ・サカキ・ツバキ(照葉樹)やツガ・モミ(針葉樹)があるそうです。

                     

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そうか、椿も陰樹として生き延びてきたのか…

たくましい樹木なのですね。

ひょっこりこちらを向いて咲いていました。

西日を受けて、きらきら。

 

昼食抜きで3時間、さすがに疲れてきたところで、まるで龍のような老木がありました。

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とぐろを巻いて、首をもたげています。

龍神さまみたいだと思った瞬間、貴船川のせせらぎがこだましてきました。

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やっと鞍馬寺の西門に到着です。門を出て赤い橋を渡ると、貴船街道です。下り坂が堪えて、膝がぷるぷる震えていました。それでも気分は上々で、その後さらに2km先の叡電貴船口」駅まで歩き、今日の旅を終えました。

 

そういえば、西門から魔王殿に上ってくる人も数人いました。若い人でも杖をつきながら、ハアハア息を切らしていました。健脚でなければ、今日私が辿った順路がお勧めです。

 

まとめ

今日のルート:1,893mf:id:travelertoearth:20200211175521p:plain

次回は、霊山あるいは聖地と呼ばれるにふさわしい、太古からのドラマチックな歴史を紹介します。

【京都検定に登場】中高年で転身したスゴイ人たち その1

禅僧から喫茶店の店主(おやじ)になった売茶翁

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京都学がなければ出会うことのなかった素敵な人たちがいます。記憶する限り、歴史の教科書には載っていなかったように思いますが、もし載っていたとしても、若い時代には心に響かなかったかもしれません。

年齢を理由に一歩踏み出すことを躊躇する現代人に、江戸時代の京に暮らしたひたむきな人たちが勇気を与えてくれています。

 

地位や実績にしがみつくことなく、仕事をあっさり捨て、心の求めるままに舵を切り、自分の生き方を全うした人たち。精神的に豊かに、優雅に、楽し気に。しかも、みんな長生き! 結果として人脈を広げ、有形無形の宝を現在に遺してくれました。 

それでは第一弾、売茶翁をご紹介しましょう。

 

売茶翁(ばいさおう)(高遊外)   江戸中期(1675-1763)         

11歳で出家し禅を学んだ、黄檗宗の僧(月海)。肥前(佐賀県)出身。

22歳で病気になり、さらなる仏道修行のために、各地を行脚。

33歳、長崎で煎茶の知識を吸収。

やがて肥前の龍津寺に戻り、長年師に仕えた。師の没後、法弟に寺を譲る。

57歳、 志をもって上洛。

お布施という安定収入で安逸に流れる禅僧たちに反発して。

「袈裟の仏徳を誇って、世人の喜捨を煩わせるのは、私の志にあらず」            

 61歳、 東山に「日本初の喫茶店」通仙亭開業(通仙亭の場所は諸説あり)。

 また、茶道具を担いで移動喫茶店も。茶をふるまいながら理想の世界を求めた。

 

春は桜、夏は清流、秋は紅葉の下で、のどかなよもやま話に包み込んで禅道を説いたと伝わります。格式ばった上流階級の茶の湯にも疑問を呈し、急須で淹れる煎茶を、身分を問わず誰にでもふるまいました。銭筒に下記のような文言が記されていたそうです。微笑ましいですね。

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禅道と世俗を融合させた話術でたちまち大人気になり、喫茶「通仙亭」は文人墨客のサロンと化しました。「売茶翁に一服接待されなければ、一流の風流人とは言えぬ」とまで言われたそうです。中でも、肖像画を描かないことで知られる伊藤若冲は、生涯売茶翁に憧れ、肖像画をいくつか描いています。「動植綵絵」を見た売茶翁も「若冲の絵の上手さは神クラス」という意味の書状を遺しています(宮内庁三の丸所蔵)。

経歴に戻りましょう。

 

67歳、宇治田原の永谷宗円を訪ね、彼が考案した「青製煎茶」をいたく気に入る。

68歳、 還俗 

鍋島藩の掟(10年に一度帰国すること)により、故郷に戻った際、還俗を申し出る。

この時、「高遊外」と改名。

 

改名のエピソードも微笑ましいです。(以下、想像して現代文に)

     

f:id:travelertoearth:20200131001000p:plain京での暮らしはどうですか?   

f:id:travelertoearth:20200131001212p:plain こうゆう具合に暮らしておる

f:id:travelertoearth:20200131001000p:plainこう優雅に??

f:id:travelertoearth:20200131001212p:plain ハッハッハ~ これからはこうゆうがい(高遊外)と名乗ろう

 

81歳、喫茶「通仙亭」閉店。その後は揮毫などで暮らす。

87歳、没

 

売茶翁は数々の名言を遺しました。友人たちが名言集『売茶翁偈語(げご)』をまとめ、その扉絵に若冲が「売茶翁」を描いています。監修したのは、売茶翁と親交の深かった相国寺の大典顕常。偈語の大正時代の写しを、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932317で見ることができます。移動喫茶店として、東福寺(通天橋)、高台寺下鴨神社糺の森)などに出向いていたことが分かります。

 

売茶翁は1763年7月16日に亡くなりました。現在も毎月16日に宇治の萬福寺黄檗宗大本山。煎茶を日本に伝えた明の隠元隆琦が創建)で売茶忌がおこなわれます。

 

2013年(平成25年)、売茶翁没後250年を記念し、「売茶翁没後二百五十年記念碑」が建立されました。北大路大橋の東詰めを少し北に上がったところにあります。逆光が眩しく、上手に撮影できませんでしたが、こちらが記念碑です👇

 

                        

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こちらが副碑です👇        

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このような訳になるでしょうか。「茶道具を担いで、窮屈な住まいを出て 清らかな水の湧く場所を選び鴨川で心を遊ばせる 鼎(煮出し用の鍋)で煮るお茶はこの世の味とは思えない 神仙を求めてわざわざ遠くまで行く必要はない(鴨川のほとりがその境地だから)」

 

漢文にも書にも優れ卓越した文化人でありながら、清貧を貫いた売茶翁。還暦を過ぎてから、茶店の主に転身して煎茶の普及に努めましたが、目指すところは真の禅道の浸透でした。そこに悲愴感はなく、むしろユーモアに溢れる言葉と軽やかな笑い声が聞こえてきそうです。

 

主な参考文献:  

高遊外売茶翁顕彰会HP http://www.kouyugaibaisao.com/

国立国会図書館レファレンス共同データベース

国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932317

Norman Waddell. The Old Tea Seller: Life and Zen Poetry in 18th Century Kyoto (Counterpoint,2010)     

狩野博幸ほか『異能の画家 伊藤若冲』(新潮社, 2008年)        

売茶翁没後二百五十年記念碑  碑文          

【神泉苑】気持ちが洗われる聖地

1月なのに梅雨のような天候。きっと浄化の雨。

龍神さまに会いにいってみよう、と思い立ちました。

Location

二条城の南側 押小路通御池通の間

最寄り:京都市営地下鉄東西線 二条城前

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門をくぐって、空を見上げたとたん、厚い雲の中から鏡のような銀色の太陽が顔を見せてくれました。

雨の雫がついた椿が凛として、爽やか。五月の強い日差しの中訪れたときには、池の龍頭船めがけて光の柱が降りていました。その時と同じく、清々しい気に満ちています。

神聖な雰囲気に浸るだけでも充分ですが、縁起を知ると、間違いなくここが歴史の舞台だったことが分かります。かの有名人たちが息づいていた現場だと思うと、感慨深いですね。

History

延暦13年(794) 

桓武天皇の平安遷都と同じ頃、大内裏南東に巨大な苑池として造営される。清らかな泉が湧いていたことが「神泉苑」の名の由来。

弘仁3年(812)  

嵯峨天皇の「花宴の節」が、記録に残る花見の初出 (『日本後紀』)

◆天長元年(824) 

淳和天皇の命により弘法大師空海が祈雨。善女龍王を勧請して雨を降らせた。

今も善女龍王が棲むという法成就池。日照りが続いても決して枯れることがないこの池が御池通」という名前の由来という説がある。

御池通平安京の「三条坊門小路」に相当する。

貞観5年(863)     

疫病大流行。貞観年間に二度御霊会が開かれる。国の数66本の鉾を立て、神泉苑の池に繰りこみ、厄払い。これが後の祇園祭発展。

寿永元年(1182) 

大日照りが続く。白拍子静御前が祈雨の舞を舞うと、三日間大雨。

水干に立烏帽子姿の静御前は、ここで源義経に見初められたという。

◆慶長7年(1602)   

徳川家康の二条城建設に伴い、神泉苑の泉が内堀に利用される。敷地積が約十分の一以下に。

 

東寺真言宗の寺院ですが、神仏習合そのものの伽藍です。

👇

Holy places

●本堂 聖観世音菩薩(聖観音)・不動明王弘法大師

●善女龍王社 

一つだけ願いを叶えてくれる善女龍王。その願いを念じながら朱塗りの橋(法成橋)を渡り、法成就池の対岸にあるお社にお参りすると必ず成就すると伝わる。

 

仏法の守護神である龍神空海の祈祷を成就させたように、私たちの願いの成就も助けてくれそうです。

お社の中を真正面から撮影するのは常々失礼だと思っています。ご挨拶をして、撮らせて頂きました。

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願いを念じて渡る法成橋

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拝殿の前で仲良く昼寝をする三羽のアヒル真言を唱えても起きる気配なし。

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アオサギが飛んできて、善女龍王社の屋根に止まった。神使に違いない。


 恵方社  

大歳神(歳徳神(としとくじん)を祀る祠。(歳徳神はその年の福徳を司る神のこと)

毎年大晦日に向きを変えられるとても珍しい祠で、新年の恵方に向かって参拝できる。

 

先ほどは願い事一つに限定だったので、次のお堂のご本尊名に嬉しくなりました。「増運」弁才天! ご利益追加もOKのようです。

👇

●弁天堂 

増運弁才天(人々に知恵や財運を届けてくださる、水の神さま)

京都案内誌『京羽二重』(水雲堂狐松子著)にも記される弁財天廿九カ所霊場のひとつ。

          

●矢剱(やつるぎ)大明神社 神泉苑の鎮守稲荷社

真言宗とともに稲荷信仰も広まったから、稲荷社なのでしょうか。なぜ矢剱大明神なのかはよく分かりません。いくつかのサイトで書かれていることですが、東寺の空海との祈雨合戦に敗れた西寺の守敏が妬んで矢を放ったが、地蔵菩薩の化身が身代わりとなって空海を救った話があります。しかしそれは「矢取地蔵」として羅城門跡(旧街道「鳥羽の作り道」の起点)に祀られています…。今度、寺務所の方に尋ねてみます。

【追記】1か月後、再訪した際に寺務所の方に尋ねました。この神社は明治時代に建てられたもので、「参拝するみなさんを矢剱で守護」してくださる神様なのだそうです。

 

Relaxing scenery

雨上がりのしっとりした空気の中、樹木や椿の花が生き生きとしていました。

仲良しアヒル、全体を見守るかのようなアオサギ、人が歩いても逃げることなく水たまりの水を飲むスズメ。みんなマイペースで伸び伸びと生きています。

こうして写真をアップしても、全く同じ光景は二度とありません。

季節ごとに訪れたいものです。

鯉塚・亀塚にも、生きものたちへの慈しみが窺える素敵な寺院でした。

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最後に、ファンタジー👇

Episode

五位鷺ゴイサギ)伝説

神泉苑HPより)

醍醐天皇神泉苑行幸になったときに鷺が羽を休めていた。
帝は蔵人にあれを捕らえて参れと仰せられた。
蔵人が近づくと鷺は飛び立とうとした。
蔵人が「帝の御意なるぞ」と呼びかけると鷺は地にひれ伏した。
帝は大いに喜ばれ、鷺に「五位」の位を賜った。              
以降、鷺は「五位鷺」と呼ばれ、謡曲にも謡われるようになる。

 

👇能「鷺」で描かれている最後の場面(『面からたどる能楽百番』(淡交社)より)

‟少年や還暦を過ぎた年代は無垢の存在と見なされ、能面をつけない「直面(ひためん)」で舞う“

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官位を授かった鷺は喜びの舞を舞う

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ゴイサギ神泉苑の住民


 

【京都検定1級】合格を目指しつつ巡る歴史散歩ブログ開始

独り占めはもったいない

京都検定1級に4度落ちました。今年5度目のチャレンジです。

古都の歴史・文化はあまりにも幅広く、深く、好奇心をかき立てると同時に、様々な癒しと気づきを与えてくれます。自分一人で味わうにはもったいない!と常々思ってきました。

 

「合格体験記」ではありません。しかし、不合格だったからこそ、長期間学び続けることができています。

そして、非・京都人だからこそ、何もかもが新鮮で驚きに満ちています。

「なるほど!」と膝を打つような知識もさることながら、複数の事象の「つながり」が見えてくる快感、様々な人物の「生き方」から得られる感動… 今の学びは、たくさんの喜びと励ましを与えてくれます。

本当にほんとうに、楽しいのです。

 

京都の歴史・観光地理・文化をシェアしたい

「神社」「寺」「遺跡」「街並み」「祭」「自然」「人物」「文学」「食物」…カテゴリーは様々です。

にわか京都人の素人目線で、感動したことを綴っていきます。京都は、共有したい魅力の宝庫だからです。

共有するためには、きちんとリサーチもします。理解が深まることが自分自身の喜びでもあります。もはや「試験に出るかどうか」はどうでもよいです。負け惜しみではありません(^_-) 

興味深いと感じたものをしっかり調べる、1つの事柄が次々と違う分野に連鎖していくのに任せる、といった自由な学びも楽しいものです。それが誰かの楽しみにつながれば、望外の幸せです。

 

時々「奈良」

私は奈良ソムリエです。「奈良まほろばソムリエ検定」という、県民にさえあまり知られていない検定なのですが。奈良県民ではないからこそ、その魅力にはまり、それはそれは多くのことを学びました。

今になってみれば、京都を知るためのベースになっていますが、京都とはまったく異なる魅力があります。

奈良の魅力も綴っていきたいです。

 

では小沢蘆庵先生に倣って「ただごと」日記、始めます。