【京都検定】古都学び日和

癒しと気づきに溢れる古都の歴史散歩

【鞍馬口 西林寺の木槿(もくげ)地蔵さん】

10月初旬、例年になくいつまでも瑞々しい木槿(ムクゲ)が咲き続ける西林寺を訪れました。何度目の訪問でやっとお会いできたご住職が話してくださった興味深い歴史を紹介します。

羽休山飛行院 西林寺(うきゅうさん ひこういん さいりんじ)

地下鉄烏丸線 鞍馬口駅から200mほど西に、西林寺天台宗)はあります。

書物で偶然目にした美しい「木槿(もくげ)地蔵尊の写真、そして「羽休山飛行院」というユニークな山号がずっと気になっていました。

ご本尊の木槿地蔵菩薩坐像 (木像) (ご住職が写真の転載を許可してくださいました)

木槿(ムクゲ)とは

木槿(ムクゲ)  一日でしぼむ「一日花」

それがしも 其の日暮らしぞ 花木槿(一茶)

地域では「もくげ地蔵さん」と呼ばれていますが、由来となった植物の方は「むくげ」と読みます。

一茶の句でも分かるように、木槿の花は一輪一輪が一日でしぼむ「一日花」。それゆえに、「一期一会」を尊ぶ茶道で好まれてきました。

朝開き夕方しぼむはかなさと裏腹に、6月~10月まで長期にわたり(とくに盛夏に)次々と花を咲かせることから、強さや繁栄の象徴として、韓国では国花としています。花・皮・種子は漢方薬として、若葉は食用としても活用されるほど、無駄のない植物だそうです。

私が訪ねたのも10月初旬ですが、まだまだ蕾がついていました。

 

ムクゲの草むらから現れたお地蔵さま

寺伝では、かの有名な「役行者がこの地で松の根元から放たれる瑞光を認めその地中から掘り出した石をもって地蔵像を刻んだ」とあるそうです。

時は流れ、平安初期の延暦年間(781-806)に慶俊(けいしゅん)僧都が、ムクゲの草むらからその地蔵尊を感得しました。桓武天皇から火防(火伏)の寺を建立するよう命じられていた慶俊は、この地蔵尊を本尊として、このお寺を創建しました

したがってお寺の開基は慶俊僧都ですが、もともとは飛鳥時代修験道の開祖、役行者ゆかりのお寺であることが分かりました。歴史の古さに驚くばかりです。

しかも、京都にある寺院はことごとく豊臣秀吉の都市計画で移転を余儀なくされましたが、西林寺は創建当時からこの場所にあるとのことです。

 

歴史の荒波にのまれて

このお寺から西へ進むと西陣烏丸通を隔てて東に行くと、上御霊神社があります。

上御霊神社といえば、応仁の乱の戦端が開かれた(当時は御霊の杜と呼ばれた)場所。西陣は、西軍の山名宗全が陣を置いたことに由来する地名です。

 

かつて広大な寺域を誇った西林寺でしたが、応仁の乱天明の大火、その後の権力者による寺仏没収などにより、堂宇を失ってしまいました。役行者が彫り、慶俊僧都が祀った石像のお地蔵さまも行方不明になったそうです。

お話を伺って初めて、権力者による寺仏没収があったと知りました。石のお地蔵さまは火災でも残りそうなのに…という疑問が解けました。

さらには廃仏毀釈の危機にも瀕しました。壮大な歴史に鑑み、お寺は存続されましたが、江戸末期(1845)建立の小堂を残すのみとなりました。

 

いろいろなサイトでは「洛陽四十八願所地蔵巡りの第十九番霊場」と書かれていますが、現在この霊場会は、存在しません。第十九番霊場として、京都の名地蔵のひとつに数えられていたのは、江戸時代のことだそうです。

 

愛宕神社とのつながり

愛宕神社は、「火伏」のご利益で有名です。創建には諸説ありますが、役行者が神廟を建てたのが始まりと言われています。そして慶俊僧都は中興の祖とされています。したがって、役行者&慶俊僧都ゆかりの西林寺は、同じく火防が目的であったことからも、愛宕神社と兄弟といっても良いかもしれません。

 

愛宕天狗のお休み処だった

愛宕山に棲む天狗、太郎坊。「天狗」と聞いて思い浮かべる、鼻の大きな鞍馬の天狗と異なり、くちばしと羽のある烏天狗です。この愛宕山の太郎坊、京の都見物に訪れるたびに、必ず境内の松で休んだそうです。

烏天狗が飛んできて羽を休めたとの言い伝えから、山号が「羽休山飛行院」となったのでした。

ご住職のご自宅である庫裏には、烏天狗を描いた「烏天狗騎猪図」があります。特別に拝見する機会を頂きました。

絹本着色「烏天狗騎猪図」 猪は愛宕神社の眷属

描いたのは海北友徳(江戸中期~後期)。建仁寺方丈の龍図を描いた海北友松を祖として七代目の御所御用絵師です。鮮やかな色彩の真筆が見られて嬉しかったです。

京都国立博物館での特別展にも展示されました)

 

天狗が羽を休めた松は、台風による被害で切り株だけになってしまいました。ところがそこから再び松が成長したとのこと。

 

愛宕神社との繋がりが強いこのお寺では、毎年11月23日に山伏が参集し「彩灯大護摩供」や「幸せ善哉」の接待が執り行われていました。しかしながら、コロナ禍以降は執り行われていません。住宅密集地にあり、防火の観点からも再開は難しいとのことでした。

 

本堂の外からも仏像を拝観できます。

少し暗いので見えにくいのですが

◆中央:木槿地蔵菩薩坐像 先の写真のお地蔵さま。現在は可愛いお召し物をまとっています。

◆向かって左手:不動明王 護摩供養には欠かせない、魔を焼き尽くす炎の明王🔥

◆同じく左手:役行者 天空を飛び、高下駄で山岳を駆け巡る、スピリチュアル界の元祖スーパースター!

◆向かって右手:聖観世音菩薩 千手観音や馬頭観音など三十三に変化する観音さまの中で、人間のお姿をした基本形(聖観音=正観音 )

この聖観世音菩薩立像は、昭和の大仏師、松久朋琳(まつひさほうりん)作です。松久朋琳は、四天王寺仁王像や鞍馬寺の魔王尊像も彫った方だと知り驚きました。

 

このお寺を創建した慶俊僧都は、空海に「虚空蔵求聞持法」を授けた師匠と言われています。奈良の大安寺(仏教の大学的位置づけ)で指導していた渡来系の僧なので納得です。

 

80歳になられてなお、かくしゃくとされている山本真照住職は、このお寺で現在も五行易学を指導されています。

京都新聞をはじめ、全国36紙に掲載された「今日の運勢」を執筆されていた方です。

 

 

幾度もの災難によるお寺の荒廃は、ムクゲの花のはかなさを思わせます。しかしながら同時に、深い歴史が刻まれ、1300年を経た今も地元の人々に親しまれている事実は、強さを合わせ持つムクゲのしなやかな生命力そのものです。

【椿寺 地蔵院】あこがれの五色八重散り椿

北野天満宮のほど近くに、「椿寺」として親しまれる小さなお寺があります。正式名称は昆陽山(こやさん)地蔵院嵐電北野白梅町駅から徒歩4分。西大路一条の角地なので分かりやすい立地です。

 

3月8日「最初の一輪が咲きました」、というお寺のブログ「椿寺だより」を見てから、ずっとソワソワしていました。速水御舟の描いた「名樹散椿」はこちらの椿だと知ってからの念願、やっと叶いました。

 

門前で声をかけてくださった地元の方が、「大した観光資源はありませんが」などと言われましたが…。

いえいえ、とんでもない。深い歴史があることを知って、そして名樹見たさに訪ねてきたのです。

観光客で超満員となっている市バスを避け、お天気も良いので北大路から1時間ほどてくてく歩いて。

 

画家 速水御舟が描いた「名樹散椿」

「名樹散椿」のモデルとなった椿(現在は二代目) それでも樹齢 120年とのこと

まだまだたくさん蕾をつけていましたので、これから次々と異なる色合いの花が開きそうです。

名前が表すとおり、花弁が一枚一枚散っていくので、地面に散り積もったところも美しいことでしょう。

 

速水御舟の「名樹散椿」についてはこちら👇

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/282493

 

数々の歴史上の人物と共に

地元の方がもっぱら「椿寺」と呼ぶ地蔵院には長い歴史があります。

奈良時代摂津国(兵庫県)の昆陽池(こやいけ)のほとりに、かの有名な行基が建てた「地蔵院」が始まりです。

平安時代には京の衣笠山の南に移され、七堂伽藍が整った名刹となりました。

ところが、室町時代山名氏清らが足利義満に対して起こした反乱によって焼失してしまいます。

 

足利義満はこの寺の荒廃を惜しみ、金閣造営の予材をもってお堂を建てて、地蔵菩薩を祀りました。

現在「地蔵堂」に祀られている「鍬形地蔵」がご本尊でした。

 

現在地に移したのは、やはり豊臣秀吉。彼の都市計画により、お寺はことごとく移動させられました。多くは寺町通に整列させられましたが、地蔵院はここ、北野天満宮のすぐ近くに移されました。北野天満宮と言えば、秀吉の一大イベント「北野大茶の湯」。そこに、加藤清正は朝鮮から持ち帰った「五色散椿」を献上しました。大茶会の後、その椿を秀吉がこの寺院に献木したと伝わります。

 

江戸時代になって、知恩院の末寺として浄土宗に改められたので、お地蔵さまはご本尊ではなくなりました。

しかしながら、門を入って左右に咲き誇る椿の奥、真正面に地蔵堂があります。拝ませて頂くと…

そのお姿たるや、頭巾のようなものを被られ、お化粧をしたチャーミングなお地蔵さま。優しいお母さんのようです。一心に手を合わせて、去り際にふと気づくと「安産祈願」とありました(^^;

 

元のご本尊「鍬形地蔵尊」をお祀りする地蔵堂
もうすぐ枝垂れ桜と椿のコラボも見られそうです。

地蔵堂前に咲く「ヤブツバキ

 

「椿寺だより」のサイト👇

https://jizouin.exblog.jp/

 

⁑昆陽山地蔵院について⁑

現在のご本尊「五劫思惟阿弥陀如来」(本堂)

洛陽三十三所観音霊場 第三十番札所 「十一面観音」(観音堂

厨子の中の十一面観音立像は慈覚大師の作と伝わる

 

参考文献:京都府歴史遺産研究会編 『京都府の歴史散歩(上)』(山川出版社, 2014)

平成洛陽三十三所観音霊場会『洛陽三十三所観音霊場巡礼 公式ガイドブック』

【久我神社】八咫烏に化身した神様の鎮座地

誰もが知る下鴨神社ご祭神は、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)です。上賀茂神社のご祭神 賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)のお祖父さんです。

この神様が山城国(京都)にやってきて、最初に住まわれたのが、久我(くが)神社のあたりと言われています。

久我神社は、上賀茂神社から賀茂川を渡って1㎞ほど南の住宅地にひっそり佇んでいます。上賀茂神社の摂社であり、延喜式神名帳に記載された古社です。市の史跡にも指定されています。

上賀茂神社境外摂社「久我神社」本殿
所在地:京都市北区紫竹下竹殿町  久我国の北山基(きたのやまもと)と呼ばれた地区

      

茂建角身命は神武天皇を先導した八咫烏だった

山城国風土記逸文によると、建角身命とは「猛き神」の意味をもつ、日向の高千穂に天下った神。

カムヤマトイワレヒコ(のちの神武天皇)のいわゆる「神武東征」の際、八咫烏に化身して、先導役を務めたと記されています。

以下は、神社で頂いた『久我神社略記』からの抜粋です。とても分かりやすく由緒が書かれていました。

「(のちの神武天皇が) 紀伊国の熊野に上陸されたが険しい山中に迷い、その上敵軍に遭って非常に困っておられると、一羽の大きな烏(八咫烏)が現れた。夢のお告げの通り天皇はこの烏の導くままに進まれて、ついに大和を平定され橿原の宮で即位され、今日の日本の基を造られた。

このとき八咫烏となって道案内をされたのがご祭神の賀茂建角身命であって、その功により山城国を賜り、建角身命は一族を率いて山城国に移り、賀茂川の上流のこの地(久我の北山基)に住まわれた。

後に建角身命の功績を讃えてお祀りしたのが当神社の始めである。

その当時より当神社は「大宮」と敬称された為、その前の通りは「大宮通」と称された。

また、建角身命の御子神である玉依比売命(たまよりひめのみこと)が懐妊され、生まれた神様が賀茂別雷神上賀茂神社の祭神)である」

 

上賀茂の神様のお母さんとお祖父さんが祀られているので、下鴨神社の正式名称は「賀茂御祖(かもみおや)神社」です。

 

今まで疑問に思っていたことがありました。八咫烏に化身したのが下鴨神社のご祭神なのに、

なぜ上賀茂神社八咫烏のおみくじがあるのか?

なぜ上賀茂神社で烏相撲(*)がとられるのか?

 

調べてみると、自分なりにその謎が解けました。

もともと上賀茂神社下鴨神社の境内は、糺の森でつながっていたそうです。二つ合わせて「賀茂社」と呼ばれ、区別が無かったと考えれば納得できます。そして、賀茂族の「祖」が初めて鎮座した久我神社が、地理的に上賀茂神社に近いことを考えると、烏に因んだおみくじや神事があるのも不思議ではないと分かりました。

神紋の二葉葵をつけた八咫烏みくじ
大吉を出してくれた大切な宝物

 

*烏相撲:九月九日(重陽節句) 上賀茂神社のシンボル、円錐形の立て砂が並ぶ細殿の前にて。氏子の子どもたちが奉納相撲をおこなう。相撲に先立ち、神職二人が烏のように横跳びしたり、「カーカーカー」「コーコーコー」と鳴きまねをする。

 

上賀茂神社の各摂社と同形式の美しい本殿

奥が本殿。庇が正面になる作りを「流造り」という。二葉葵が装飾された檜皮葺の屋根。

一番手前が拝殿。妻が正面、庇が左右に広がり、本殿と互い違いの構造で、とても珍しいそうです。

 

大宮通」の名は、この神社から

かつてここは「大宮の森」と呼ばれ、鬱蒼とした樹林が広がっていました。今は、境内に残されたいくつかの巨樹と、ご神木がその面影をわずかに残しています。

 

『久我神社略記』に書かれているように、大宮通」の大宮とは、まさにこの神社だったのです。

社殿は南面していますが、鳥居は東と西に立っています。西側の鳥居の前の道がかつての大宮通でした(現在の旧大宮通)。

 

旧大宮通に面する西鳥居

旧大宮通の1本東が新大宮通
名物「やきもち」の店舗前の白木蓮が咲き誇っています(撮影日2023.3.12)

神様の名前が語ること

神様の名前は覚えにくい、と言われます。確かに、舌を噛みそうになりますが…。

猛き(たけき)神の意味をもつ建角身(たけつぬみ)命。声に出して読んでみても、漢字を見ても、名が体を表しているようです。神武東征を助けた荒ぶる神ですから、力強さを感じます。

古来、「賀茂の厳神、松尾の猛霊」と言われているように、厳しさをもって人々を導く神様として讃えられてきたのでしょう。

ここで賀茂社とセットで謳われている「松尾の猛霊」とは、松尾大社のご祭神「大山咋神です。

そして、この「大山咋神」(おおやまくいのかみ)こそ、上賀茂神社ご祭神「賀茂別雷神」の父であるという説があります。

 

 

因みに、賀茂別雷神はその漢字が示すように、「雷」神です。雨かんむりに、田んぼ。つまり雨を降らせる農耕の神です。(空を割って=別けて、昇天したとされています) 畏怖される神さまと言うより、人々の営みに寄り添う神様として崇敬されてきたのでしょう。

 

地元の氏神として

久我神社は観光地ではありません。

荒ぶる神であった賀茂建角身命は、今では近隣の町の氏神として、また、八咫烏伝説に因んで航空・交通安全の守護神として信仰されています。

私も(京都に住まわせてくださってありがとうございます)と手を合わせ、導かれたことに改めて感謝しました。

 

参考文献:京都府歴史遺産研究会編 『京都府の歴史散歩(上)』(山川出版社, 2014)

    『古社名刹巡拝の旅 3 賀茂川の道』(集英社, 2009)

    『久我神社略記』(神社で頂いたもの)

 

 

 

 

【西賀茂 神光院】大田垣蓮月 隠棲の地

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かつて上賀茂神社付近にあった道標。 「厄除弘法大師歌人 蓮月尼 隠栖之地」 と刻まれている。

京都三大弘法のひとつ神光院(じんこういん)

上賀茂神社から、賀茂川をはさんで西へ1㎞ほどの「西賀茂」に「神光院」(じんこういん)はあります。

五山の送り火の一つ「船形」を背にした住宅街にひっそり在るこの「神光院」が、「東寺」「仁和寺」と並ぶ「三大弘法」であることはあまり知られていません。通称「西賀茂の弘法さん」。

 

鎌倉時代上賀茂神社神職が「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」とのご神託を受けて創建その由来に因み、神光院と名づけられました。

 

創建前の平安時代には、御所に瓦を収める職人の宿でもあったことから「瓦屋寺」と呼ばれていたそうです。弘法大師空海が90日間修行をし、ここを去る時に境内の池に映る自らの姿を木像にしました。それが現在も本堂に安置されています(お堂は閉まっていますが、予約をすれば拝観可能かもしれません)。

 

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本堂には弘法大師自らが刻んだ大師像が安置されている(訪問日11月14日)

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この池に映った自らの姿を空海は木像にしたのですね。

本堂にお参りしていると、バサッと音がしてアオサギが現れました。

 

 

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池のほとりの山茶花(サザンカ)。真っ白な八重。ここにしかない品種だと後で知りました。

 

厄除弘法さんとして  

「厄除弘法」と呼ばれる所以は、7月21日と土用の丑の日に行なわれる「きゅうり封じ」。きゅうりに氏名・病名を書いて病魔を封じ込め、祈祷を受けます。そのきゅうりで身体の悪いところを撫で、自宅または境内に埋めると、平癒すると言われています。弘法大師が中国から伝えた祈祷法とのこと。

 

お遍路さんが四国八十八カ所巡礼に旅立つ前に、ここで旅の無事を祈願する習わしもありました。

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ポスターの言葉。「同行二人」 “お大師様は、いつも一緒に歩んでくださっています”

 

いつ訪れても観光客はなく、静寂な空気に包まれています。

「静かなところや。なんとのう気が朗らかになります。生涯ここに置いてもらえませんか」磯田道史『無私の日本人』)

幕末の女流歌人・太田垣蓮月がこの静寂を愛し隠棲した痕跡が、今も遺っています。

 

大田垣蓮月(おおたがき・れんげつ)

🌺家族全員を次々と病で喪い、自らの業であると自責し出家した尼僧。

🌺超美人でありながら、それを疎み、自らの手で容貌を損ねた女性。

🌺歌人・陶芸作家として名を馳せながら、清貧を貫いた文化人。

🌺富岡鉄斎文人として育て、西郷隆盛に戦を止めるよう手紙で促がした教養人。

🌺つきまとう人気を疎み、住まいを転々と変えた引っ越し魔。

 

そんな蓮月が「屋越しの蓮月」というあだ名を返上し、ここを遂の栖としました。

 

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「蓮月尼僧 栖之茶所」と刻まれている。 側面には「是より西五町 小谷に墓あり」

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蓮月が晩年10年間を過ごした茶所。寺の門をくぐって、左手にあります。

数々の文人が彼女を慕って訪れました。

 

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  蹲(つくばい)が苔むしています。蓮月さんが客人をもてなしたであろう様子を想像します。

 

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茶室とつながっている「不動堂」 以前は解放されていて、不動明王を拝むことができたが、現在は閉鎖中。

来るたび、この畳に腰かけ、蓮月さん気分で境内をながめています。

 

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           池のアオサギさんは、ずっと同じ場所に佇んでいました。

 

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蓮月尼の足跡を記した石碑

七五三や結婚式で賑わっていた上賀茂神社から歩いて15分の古刹には人影もなく、ひっそり秋の空気を満喫できました。周囲は住宅に囲まれており、バス通りにも面していますが、時を経ても変わらない閑寂さが漂っています。

 

喧騒を嫌ってこの地に隠棲した大田垣蓮月。その生涯ついては、少し詳しくまとめておきます。

 

美貌と才気にあふれる女性、大田垣蓮月 (おおたがき れんげつ1791-1875 江戸後期~明治8年)

出自

伊賀から上洛した武士(藤堂新七郎が有力説)と花街の芸妓の間に生まれた私生児知恩院に仕える寺侍、山崎常右衛門(のちに大田垣を名乗る)の養女となり、誠(のぶ)と名づけられました。

幼い頃から人目を惹く美しさで、大きくなるにつれ、通りを歩くと男たちが後ろをついてくるほどの美貌だったそうです。おのぶはこれを疎ましく思い、逃げ隠れる日々。

ところが痛快なことに、並外れた運動神経に恵まれた彼女は、剣を振るい、鎖鎌(!)まで振り回す武芸の達人でした。恥じらいのある控えめな性格でありながら、忍びの者としてスカウトが来そうな逞しさ

しかも、6歳から和歌を詠むという、才気にも溢れていました。知恩院の付近には多くの文人が住んでいて、可愛いおのぶは自ずと英才教育を受けていたようです。

 

付きまとう不幸

美貌、運動神経、知性… 天性のものをすべて持ちながら、彼女には常に不幸が付きまといました。

最初の結婚で、幼子三人、果ては夫までが病死。二度目の結婚でも、夫は病で早逝します。

自分は人を不幸にする…自責の念から、おのぶは剃髪、尼となりました。三十三歳でした。

知恩院から「蓮月」という法名を与えられ、同じく剃髪した養父と、二度目の夫との間にできた二人の子と共に、小さな塔頭で暮らすことになりました。

ところが追い打ちをかけるように、娘がわずか七つで、その下の男の子も幼くして亡くなります。

 

自らへの破壊行為

四十二歳で養父も亡くなり、独りになった蓮月。住まいとしていた知恩院塔頭は尼寺ではないため、出ていかなくてはなりません。聖護院村のみすぼらしい小屋に住み、生活の糧のため和歌を教え始めました。

しかし、美しすぎる蓮月には、男が次々と言い寄ってきます。容貌を損なえば、付きまとわれないだろうと、まずは眉を抜きます。それでもだめでした。遂に、糸を前歯に括り付け、痛みに悶絶しながら1本、また1本、と自ら抜いていったのです。

 

無欲の人

さすがに抜歯事件後は言い寄る者はなくなりました。蓮月は新たな生活の糧として、手びねりの急須を作り始めます。そこに自作の和歌を釘で彫りました。出来ばえは不細工で、へんてこだったようですが、京の土産物屋に頼み込んで置いてもらいました。

蓋を蓮の葉のかたちに、取手を茎のかたちにした素朴な急須は、「蓮月焼」と呼ばれ、次第に人気を呼ぶようになります。

やがて贋作まで出回るようになりましたが、蓮月は「どんどん製してくだされ」と、贋作にまで和歌を彫ってあげたというのです。

 

引越し魔「屋越しの蓮月」

すっかり有名になってしまった蓮月は、静かな暮らしを求めて、転々と住まいを変えます。衣は着たきり、家財道具もほとんど持たず、大八車で身軽に移動。引っ越す度に小屋の修繕を任されていた馴染みの大工は、「さよう宿替えは三十四度までは覚えています」と語ったそうです。

山科の醍醐寺黒門前には、今も仮寓跡碑が立っています。

 

のちの大文人を育む

十五歳の少年がいました。のちの富岡鉄斎です。毎日やってくる不幸な生い立ちの少年を、蓮月は本当の母のように慈しみ、学問をさせ、様々な教養を育みました。仏教、神道などを修め、のちに最高峰の文人画家として大成した富岡鉄斎があるのは、蓮月との暮らしに由るところが大きいでしょう。

六十六歳になっても容貌なお衰えず、相変わらず転々と引っ越す蓮月のため、二十一歳の鉄斎は同居を始めます。陶芸用の土を運び、出来上がった作品を窯元まで運ぶ手伝いをしました。

 

神光院へ

やがて屋越し蓮月の噂を聞いた西賀茂村・神光院の智満和尚の招きで、二人はこの寺へ住むことになります。例の大工が、三畳敷の建物を移築し、神光院の茶所にくっつけました。

「静かなところや。なんとのう気が朗らかになります。生涯ここに置いてもらえませんか」(『無私の日本人』 p353)

ここを終の棲家とした蓮月は、相変わらず、誰にでも惜しみなく分け与える暮らしを続けました。村の子供たちに紙を与え、絶えず訪れる文人墨客が置いていく書画を、欲しい人に譲り、幕末の動乱で飢えた人々を救済するため、喜捨をすることで粥施工をおこないました。

喜捨の元手となったのは、自ら綴った短冊や画賛です。

殺し合いをやめるよう、西郷隆盛に和歌で直訴したことも伝わっています。江戸城総攻撃を取りやめ、無血開城となった背景には、蓮月の思いがあったからだと『無私の日本人』で磯田氏は断言しています。

 

神光院で八十四年の人生を終えた蓮月。弔いでは西賀茂の村中の人々がわんわん声を上げて泣いたそうです。

 

引用・参考文献:磯田道史『無私の日本人』(文春文庫)

【平野神社】神道とは「今」を生きること

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倒壊前の拝殿(手前) 奥が本殿

桜の季節 — 待ち遠しいような、もっとゆっくり来てほしいような、落ち着かない気持ちになります。まさに、在原業平の❝世の中に桜がなければ、春の心はのどかなのになあ❞という歌そのものです。

しかも、現在のコロナ禍では、花盛りを謳歌する賑わいも避けなければなりません。

今回は、台風被害で30本も失われた平野神社の桜と拝殿に思いを馳せながら、神社の歴史と宮司の言葉を心に刻んでおきたいと思います。

歴史ある拝殿が倒壊 

2018(平成30)年の大型台風による被害で、見るも無残な姿になった拝殿。

再建が進み、2022年春に完成予定とのことですが、歴史ある拝殿は失われました。倒れてしまった30本もの桜は、ボランティアの手で撤去作業が行われたそうです。

形あるものはいつか消えることをまざまざと思い知らされました。

倒壊した拝殿は、東福門院(後水尾天皇中宮)により江戸初期に建立されたものでした。釘を使わない接木を用いて建てられ、建築家の模範とされてきた貴重なものです。

内部に飾られていた三十六歌仙の額はどうなったのか、気になります。造立当時の絵師、海北友雪(かいほうゆうせつ)*が描いたものです。火災ではないので、修復可能なら良いのですが。

*海北友雪:清水寺本堂の大きな絵馬を描いた人物。建仁寺方丈の雲龍図を描いた海北友松の子。

本殿とご祭神

桓武天皇平安京遷都に伴い、794年創建の平野神社

平城京田村後宮から神様を遷したのが始まりです。後宮」とは、皇后や妃の殿舎。つまり、女性が住み、子供を育てる場所です。だからこそ後宮に鎮座していた神様は皇太子親祭(自ら祭祀をおこなう)対象となりました。平安中期は、伊勢神宮上賀茂神社下鴨神社石清水八幡宮松尾大社に次ぐ名社に数えられました。以降、臣籍降下した源・平・菅原・秋篠など各家の氏神として崇敬されました。

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比翼春日造の本殿

さて、ご祭神ですが、私はてっきり春日大社の四神と同じだと思い込んでいました。

本殿が、左右に二神ずつ祀る「比翼春日造」と称されているからです。

京都検定のために暗記をしていたに過ぎず、「平野神社」=「比翼春日造」…名称と漢字を間違わずに書けるかどうか、というどうでもいい勉強をしていたことを恥じています。

 

ご祭神の四柱は、まったく知らない神様でした。

〇第一殿:今木皇大神(いまきのすめおおかみ)

〇第二殿:九度大神(くどのおおかみ)

〇第三殿:古開大神(ふるあきのおおかみ)

〇第四殿:比賣大神(ひめのおおかみ)

 

しかし、先に述べた「後宮」の意味を意識し、神様の名前をよ~く見て声に出すと、ストンと納得します。

主祭神の今木皇大神は後ほど述べるとして、

九度大神は くど=おくどさん=竈(かまど)の神

古開大神の「古」は「ふる」=神道でいう「魂ふり」、「開」は「解き放つ」「明らかにする」という意味から邪気を祓う神

比賣大神はその名の通り、女性性を表すので、「生産」の神

そして主祭神の今木皇大神については、またも早とちりしそうになりました。

大辞泉を引くと、「今木」=「新来」、つまり渡来系の神、桓武天皇外戚の祖神説が書かれています。「そうか、桓武天皇のお母さん(高野新笠)は百済の人だから」と妙に納得してしまいました。しかし、この説を神社は否定しています。江戸時代の国学者による改ざんがあったというのです。

神社では今木皇大神を「源気新生」の神、としています。「今」=現在、「木」=大きく太くまっすぐに育つ樹木の神という解釈です。

そう考えると、生まれてきた子がすくすくと成長するよう、食を中心とした生活安定や邪気払いの神々を後宮に祀っていたことに納得します。(当初は今木・九度・古開の三神だったようです)

宮司の言葉

久しぶりに10年ほど前に読んだ集英社の『古社名刹 巡拝の旅』を引っ張り出しました。

当時は読み流してしまっていた宮司の尾崎保博さんの言葉が、今は心に沁みます。以下、引用です。

仏教は、法を説く仏の教えであるのに対し、神道は「道」。神は人の生活の中にあって、歴史をつなぐ存在。歩いてみて解ることであり、そこに教えはないのです。その「道」とは何か? それは先祖が歩んできた道を歩んでいくことに他なりません。伝統を伝える歩みのラインの、その線上の「今」を歩むことそのものに、意義が見いだせるのではないでしょうか。

 

まさに「中今」思想ですね。刹那的な今ではなく、途方もない年月をかけ、途方もない数の先祖が命をつないでくれたからこその、延長線上にある「今」。

物質は台風で壊れたり、失われたりしても、精神は生き続けるし、新しい樹木はまた育っていく。いろいろなことが起こっていても、「今」無事でいられることに感謝して、目の前のことをしっかり進めていこうと思います。

桜の季節になり、平野神社が気になったことから、あらためて歴史を学び直し、浅薄な知識を恥じ、最後には一番大事なことを再認識することができました。

 

🌸桜花祭について🌸

菅原道真をしのぶ北野天満宮の「梅花祭」(2月25日)と共に、平野神社の「桜花祭」(4月10日)も京都を彩る花の祭事です(平野神社は、天神川をはさんで北野天満宮の北西に位置する)。

桜花祭は、花山天皇が境内に桜をお手植えされた故事にちなみます。花山天皇といえば、藤原兼家の策謀により、わずか19歳で出家、「西国三十三所巡礼」を再興したことでも知られています。

(花山天皇を追いやった後、藤原兼家の子、道長が権勢を振るう時代がやってきます)

平野神社からほど近い北区衣笠に、花山天皇(40歳で崩御)の御陵があり、祭りは御陵への奉告で幕を開けます。

天平時代から元禄時代までの雅な時代風俗列も有名ですが、今年は祭事のみ執り行われるようです。

 

参考文献:『古社名刹 巡拝の旅』40号(集英社, 2010年)

平野神社Official Website: https://www.hiranojinja.com/home/revive

【東山三十六峰を歩く】瓜生山

ラクル連続の人生初トレッキング

雲一つない秋晴れ、風速0m、絶好のタイミングを見つけて、トレッキング・デビューをしました。

服部嵐雪が「布団着て寝たる姿や東山」と詠んだ、なだらかな稜線が続く東山三十六峰。北端は比叡山、南端は伏見の稲荷山です。京都一周トレイルの東山ルートとも重なります。山歩き初心者の私が最初に選んだのは瓜生山(うりゅうやま)比叡山から数えて八つめです。この山にまつわる幾つかのエピソードに心惹かれていました。

 

「瓜生山」は、素戔嗚尊スサノオノミコト)と同一視される牛頭天王(ごずてんのう)が降臨した地。好物の瓜が一夜にして実ったことに由来する名です。神話の舞台であり、その後数々の歴史上の人物が往来した史跡でもあります。標高301m。

 

出発地点は市バス「北白川別当町」(白川通)から東に入った「バプテスト病院」駐車場。

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歴史と自然を両方味わえる期待感でワクワクします。

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もう、せせらぎが聞こえてきます。

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いよいよ山道へ

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まずは地龍大明神にご挨拶

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ここで最初のミラクルが起こりました。

 瓜生山の主、地龍大明神

小さな社殿に向かって手を合わせ「今日、ここに来られて幸せです」と伝えると、真後ろの鳥居からサーッと爽やかな風が吹いてきました。優しくて心地よい風でした。嬉しくなって、

「写真を撮ってもいいですか? ブログで紹介してもいいですか?」と聞くと、突然「バラバラバラツ」という大きな音と共に何かが降ってきました。社殿の脇に大量のドングリ(笑)! 頭上を避けて落としてくれたので、OKみたいです。

由緒書きによると、地龍大明神は瓜生山の主神だそうです。

 

この地龍大明神は、山霊の神々を合祀した「大山祇(おおやまづみ)神社」の中にあります。山に登らず、この神社にお参りするだけでもパワーを頂けます。大山祇神社は鳥居があるだけで社殿はありません。山自体がご神体のようです。そのくらい辺りから神気を感じます。ご祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)とその娘、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と書いてありました。

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神気に満ちた大山祇神社

この鳥居の前では、清らかな小川のせせらぎと鳥の声が聞こえます。

 

 

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猪や猿などの「野生生物に注意」の看板にビビりながらも、木漏れ日の差す心地よい山道を歩きます。他には誰一人歩いていません。

 

茶山山頂に到着

20分ほど歩くと、平らな場所に出ます。計らずも東山三十六峰第七番の「茶山」山頂でした。標高180mですが、高野~松ヶ崎一帯の街並みが見下ろせます。向いには五山の送り火の船形山も見えます。

 

 

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茶山山頂からの眺め

麓を西に行くと、叡電の「茶山」駅。以前からなぜ「茶山」なのかな~と思っていましたが、謎が解けました。ここは茶屋四郎次郎の別荘があったそうです。茶屋四郎次郎家といえば徳川幕府御用呉服商であり、京の情勢を家康に進言していたことでも知られています。初代清延の頃、足利義輝が茶を飲みに邸宅を訪れていたことに因み、屋号が「茶屋」となったそうです。

家康から許可された朱印船貿易で巨万の富を得、京の三長者に数えられました。別荘のあったこの地は、現在京都芸術大学の敷地になっています。

 

白幽子巌居跡へ

ここからの道は急斜面が続き、息が切れて何度も立ち止まって休憩しました。(元気な方なら全然なんてことない道だと思います) 風もなくシャツ一枚でも汗ばむ陽気でしたが、立ち止まる度に、木の梢が大きく揺れるほどの風が吹いてくれました。あまりにタイミングの良い強めの風の応援もミラクルでした。

 

15分ほどで「白幽子巌居之跡」(はくゆうし・がんきょのあと)到着。瓜生山に来たかった理由の一つがこの場所です。

江戸中期に禅を民衆に広めた白隠は、臨済宗中興の祖として有名です。その白隠の命の恩人が白幽子という仙人です。まさにこの地に巌居していました。

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白幽子(国立国会図書館デジタルコレクション『近世畸人伝』112)

☝こんな姿だったようですが、元は詩仙堂を造った石川丈山の弟子でした。丈山の死を看取った後、ここに隠棲していました。鹿や猿と会話し、人を避けて暮らしていたそうです。

白隠を救った白幽子

一方、過酷な修行により心身をすり減らし、肺病を患っていた白隠(当時26歳)は、医術の秘法を操る仙人の噂を聞いて、美濃の国から瓜生山にやって来ました。

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実物の岩窟は予想以上に大きかったです。パノラマ撮影すれば良かった…。

一目で白隠を「ただ者ではない」と見抜いた仙人は、「内観気海丹田の法」を授けます。この「内観の法」で白隠は健康を取り戻し、以後の活動で歴史に名を刻むことになります。そして、なんと84歳まで生きたというのです!

 

白隠は白幽子に秘法を授かったことを『夜船閑話』(やせんかんな)という書物に記します。

この「白・白」エピソードを知った富岡鉄斎が、この霊地保存を発起し、写真にも写っている石碑を刻みました。

 

立ち去りかけて、「あ、私もあやかろう」と戻ってお願いをしました。するとまた周囲の木々の梢がサラサラと音を立て、風が吹き、今度は枯れ葉がシャワーのように降ってきました。

またもミラクルです。

 

元気をもらって先へ進みます。清沢口石切り場石仏や石燈籠を造るため花崗岩を切り出していた所)を過ぎると、さらに狭い急坂になり、足元も危なくなってきました。

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どちらに進めばいいか分からない所では、木に赤いリボンが結ばれています。

休み休み、歩くこと20分、瓜生山山頂に到着です。

 

瓜生山山頂到着!

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大文字山(如意ヶ嶽)とその先の山々も見えます。

山頂は小さな広場になっていて、周囲を木々が囲んでいます。

1匹のオレンジ色の蝶が出迎えてくれました。くるくる周りを飛んでは、地面に止まるのを繰り返しています。

         

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小さな祠があり、「幸龍大権現」と書いてあります。ここが麓の狸谷山不動尊奥の院とのこと。お参りしたちょうどその時、「ドン・ドン・ドン!」と太鼓が響いてきました。本堂で鳴らされているようです。ここでも歓迎されたようで嬉しくなりました。

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この祠の裏の石室に、かつて「勝軍地蔵」が祭られていました。

この狭い山頂は、「北白川城」本丸跡です。戦国時代には「如意ヶ嶽城」と共に足利将軍家管領細川家、三好長慶松永久秀らが攻防を繰り返した、と案内板に書かれています。

戦勝を祈願し「勝軍地蔵」が祀られた(近江の六角氏により)、というのも頷けます。

まさに「兵どもが夢の跡」。今はのどかで清らかな気に包まれています。

 

置いてあった太い木の枝に座って、ゴマ団子をほおばり、青空を仰ぐ至福のひと時。

遂に誰一人出会うことはありませんでした。

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ホルンフェルスを形成した瓜生山

ブラタモリでもやっていた「ホルンフェルス」ご存知でしょうか。

ホルンは horn 「角」です。フェルスは felsen 「崖」。

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京都市青少年科学センター)

白亜紀(9千500万年前)、この瓜生山の下にマグマが貫入して高い山が形成されました。そのマグマの高熱によって比叡山南側と大文字山北側が硬くて緻密な岩石になりました。熱変性を受けた岩石は浸食を免れて、現在「角」のように見える形で残りました。比叡山大文字山です。一方、真ん中で冷えたマグマは花崗岩となって日光や風雨による浸食を受け、どんどん低くなっていきました。流れ出した花崗岩白川砂となって扇状地を作ったのです。

 

この白川砂が枯山水庭園に用いられるようになりました。先ほど見たように、花崗岩そのものは石仏や石燈籠に用いられています。気の遠くなるような太古の地球の動きが、現在の京都文化につながっている、と思うと感慨深いです。

この瓜生山が比叡山より高かったというのも驚きです。とてつもない長い歳月を経て現在の地形になったことが分かりました。

 

下山中に味わったスリル💧

4時までに下山すれば狸谷山不動尊にもお参りできるかな、と思い山頂を後にしました。

ところが、余裕で間に合うと思ったのに、道を間違えてしまいました。

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「本堂近道」という小さな立て札が足元にあったので、矢印の通り細い道を分け入ったのですが、少し歩くと道がなくなりました。不安になりながらも先へ進むと…

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つかまって下りていきます。ところが…

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本堂の舞台が見えた!と思ったのに…

斜面が急すぎてとても下りることはできません。探してみても他に道が無いどころか「キケン 下りるな」と貼り紙と共に紐が張られている始末。

まじか…と言いながら、あの鎖を頼りに戻ります。

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この山で修験者気分を味わうとは想定外

なぜ「近道」なんて札を立てたのでしょう。少し腹が立ってきました。

日も傾いてきて、寒くなってきました。「山、なめんなよ」という天狗さんの戒め?

 

元の分かれ道に戻り少し行くと、曼殊院方面への矢印があったので、ほっと一息。

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初めからこの道を行っていれば15分くらいで本堂まで下りられたはずです。

道は比叡山方面へ続いていますが、私は不動尊へ向かいます。

 

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童子」が導いてくれます。

虚空蔵童子像がありました。本堂から奥の院に向かうための目印です。これが「第十四番」。下るにつれ「第十三番」「第十二番」…

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「第一番」金伽羅童子像まで下りてきました!

鳥居があり、この山は信仰の山だと改めて思いました。

 

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狸谷山不動尊清水寺と同じ舞台造りで知られる真言宗修験道大本山

やっと到着した時には午後4時1分。閉門時間は4時です。残念。

この先延々と続く階段250段が、疲れた脚にとどめをさしてくれましたが、なんだか楽しかったです。階段の途中で弘法大師像の大きな背中が見えた時もほっとしました。

 

境内を出て、同じ道(曼殊院道)をずっと下っていき、「一乗寺降魔不動明王」(大きな不動明王の石仏。その前にベンチがあって一息つけました)、八大神社(『宮本武蔵』で有名)に参拝。目の前が詩仙堂です。あの白幽子は、この詩仙堂を造った石川丈山の弟子でした。地理的にも一直線に繋がっているのだと分かりました。

 

目まぐるしく心が動かされた半日でした。

次元の違う見えない世界を感じたようで嬉しくなったり、森林の澄んだ空気を味わったり、白亜紀から戦国時代という壮大な歴史に思いを馳せたり、伝説だと思っていた白幽子が確実に住んでいた巌居を感慨深く見たり、ちょっとしたアドベンチャーで肝を冷やしたり。

石仏や庭園を形づくっている白川石や白川砂が、この瓜生山が生み出したものだと知ることもできました。

山歩きだからこそ、一歩一歩踏み占めながら大地を感じることもできました。

小さな山に秘められた奥深さが少しでも伝われば幸いです。

 

(訪問日10月15日。上りでは汗をかきましたが、夕方になると急に気温が下がりました)

【古知谷阿弥陀寺】心の中で参詣を

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長い参道の奥に見えてくる「実相の滝」と懸崖造りの茶室

今行きたいお寺はどこですか?と聞かれたら、真っ先に「古知谷阿弥陀寺(こちだに・あみだじ)」と答えます。

文字通り谷あいにひっそり佇む浄土宗の古刹、京都検定がなければ名前すら知ることはなかったでしょう。

 

外出自粛が続く折、実際に訪れることはできませんが、2017年7月と2019年5月に訪ねたときの思い出を綴りながら、心の中で参詣をしようと思います。

 

参道に足を踏み入れたら別世界

左京区大原古知平町にある阿弥陀寺寂光院から、若狭街道を車で5分ほど北上して左折すると、山門に到着です。

 

最初に訪ねたのは7月下旬、市街地では京都特有のじっとりとした暑さに参ってしまう頃ですが、ここは避暑地のようです。

巨木に挟まれた急坂の参道が見えてきます。

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参道に足を踏み入れた瞬間、サッと冷気に包まれるのを感じ、一同(妹二人と義弟と)びっくり…。

「神気、森に満つ」を体感できました。

 

ひんやりとした美味しい空気を呼吸しながら、爽やかな沢の音を聞き、樹木や苔の緑を愛でつつ、ゆったり歩きます。

私たち以外誰もいません。静寂そのものです。

 

やがて、樹齢800年以上の「古知谷カエデ」が現われます。谷あいによく見られるイロハモミジですが、風雪に耐えてきたのでしょう、独特な形状です。阿弥陀寺は慶長14 (1609)年に創建されましたが、その時すでに古木だったと寺伝に書かれているそうです。

 

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白蛇が棲むという伝承も。

古知谷一帯は、この老木を中心にたくさんのカエデが秋を彩るそうです。

 

古知谷カエデのすぐそばには、二段に分かれた「実相の滝」。時期によってはもっと水量が多いようですが、この時も清涼感を放っていました。この沢川はやがて高野川上流に注ぎます。

参道を歩き始めて20分ほどで到着です。正面には懸崖造りの茶室が見えています。

 

次回は誰が迎えてくれるかな

石段を登って本坊に向かう途中、銀色のトカゲさんの歓迎を受けました。

陽を受けて輝いて、まるで神様の使いのようです。

 

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2年後の5月に訪ねた時には、ここで瑠璃色のトンボさんが迎えてくれました。

私たちの目の前で、石段に降りたり、手すりに止まったり…を繰り返しながら上まで誘導してくれたのです。

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広々とした本坊と九輪草の庭

拝観入口のある本坊にお邪魔します。誰もいない畳敷きの広間は寝転がりたい!と思うほど広々としています。

そこから降りられる庭には、5月には色とりどりのクリンソウ(九輪草)が咲いていました。サクラソウの一種です。

 

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「九輪」とは、寺の塔のてっぺんについている相輪の一部です。

花は九輪のように輪状に咲くことから名付けられました。

日本人らしい命名ですね。
 

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学名「プリムラジャポニカ」 山地の湿地や沢沿いに生育 (「みんなの花図鑑」https://minhana.net

本坊からの渡り廊下は、開祖・弾誓上人のミイラが安置されている巌窟につながっています。

 

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即身仏となった木食上人弾誓

木食(もくじき)とは、固有名詞ではなく、草木しか食べない修行僧のことです。穀物さえも断ち、草や木の実だけを食して行を受ける人たちです。

 

弾誓(たんぜい)は尾張出身の木食僧で、念仏三昧をしながら諸国行脚していました。最後の修行地として58歳の時に古知谷へやってきました。慶長14 (1609)年のことです。

 

写真の廊下の先にある巌窟は、入定を決めた弾誓上人が、弟子たちに頼んで掘らせた石廟です。

松の実だけを食べて身体を樹脂化した上人は、石廟の中の石龕(せきがん)に生きながら入り、ミイラ佛となったのです。62歳でした。

石龕にいらしたミイラ佛は、明治時代に今私たちが目にする石棺に収められました。

 

お参りをして、巌窟の中に入り、石棺のすぐ近くまで行くことができます。暗いのでペンライトも置いてありました。

‟入ってもいいのかな…“ 畏れ多い気もしましたが、生身の阿弥陀仏になられた弾誓上人にご挨拶をしました。

巌窟の中は一層ひんやりして霊気が漂っていますが、怖くはありませんでした。

 

この石廟はちょうと本堂の裏にあたります。

 

本堂の仏さま

本堂(開山堂)にお参りします。正面の本尊は、弾誓上人自らが掘った自像で、「植髪の弾誓仏」と呼ばれています。自らの頭髪を植えたのですが、今は両耳脇に少し残っている程度です(がよく見えませんでした)。

 

脇には創建当初のご本尊、阿弥陀如来(重要文化財)が祀られています。鎌倉時代の作で、キリリと引き締まったお姿です。

浄土宗では、ひたすら念仏(南無阿弥陀仏)を唱え、浄土での幸福を願います。浄土は彼岸、彼方(かち)です。

古知谷(こちだに)の名は、「此方(こち)」に由来するという説もあるようです。

 

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本堂(開山堂)

本堂から外を見ると、私たちが「ゴレンジャー」と呼ぶ「五智如来像」が並んでいます。

 

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古知谷ゴレンジャー。真ん中が大日如来

外に出て、再び沢の音を聞きながら日光浴&森林浴です。

清浄な空気にほんとうに癒されます。

 

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この後また本坊に戻って、寛いでいるうちに閉門の時間となってしまいました。

長居させて頂いて感謝でいっぱいです。

 

お寺のパンフレットには、「新緑のすがすがしさを求めて拝観の人達も少しずつ登ってこられますが、静寂さは失われることはありません」と書かれています。またいつか、ここでゆっくり時を過ごせるのを楽しみしています。

 

 

 

 

【京都 霊鑑寺】通常非公開。春の特別公開で迎えてくれる椿の数々。

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下段左の深紅が「日光椿」(じっこうつばき)。後水尾上皇遺愛の椿です。

(訪問日 2020年3月22日)

庭園に入ってすぐのところに日光椿の木があり、見事な満開でした。見惚れてしまって、写真を撮るのを忘れてしまいました。3年目にして初めてタイミングよく見られたのに…

 

春の特別公開は、毎年お彼岸の頃から約2週間です。できれば公開後早めに訪問する方がたくさんの種類の椿が見られると思います。

 

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銀閣寺から南禅寺に至る哲学の道(琵琶湖疏水)。その中間地点を東へ上ったところにあります。

左京区鹿ケ谷にあるので、「谷御所」(たにのごしょ)、「鹿ケ谷比丘尼御所」(ししがたにびくにごしょ)とも呼ばれます。後水尾上皇が、皇女多利宮(たりのみや)を比丘尼(得度した尼僧)にして入寺させたことに始まります。

 

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霊鑑寺は「霊験あらたかな鑑(かがみ)」からその名がつけられました。本堂の如意輪観音(外から拝むので遠いのですが)の蓮華座下部に置かれていた丸い鏡に因むそうです。

この如意輪観音は、恵心僧都源信作で、後方の如意ヶ嶽にあった如意寺(廃寺)の本尊でした。如意ヶ嶽の一部が送り火のおこなわれる大文字山です。つまり、霊鑑寺は大文字山からの稜線上にあるのです。

 

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稜線を活かしているので、高低差がある美しい庭が形成されています。

今回は美しい苔庭と椿の写真をメインにお届けします。アートそのものの世界です。

 

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苔の種類も様々でした。

 

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雨がポツポツ降り出しました。

 

この後、蔵の屋根の下に設けられた腰掛に座って庭を眺めました。ちょうどよい雨宿り。

サアーーーッという心地よい雨音、高らかに繰り返されるホ~ホケキョ、鳴き交わす他の鳥たちの澄んだ声、そして…

ゴオ~ン … ゴォ~ン と鐘の音まで。

この時の三重奏はこれからも忘れないと思います。

 

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雨が止みました。花びらの絨毯のきれいだったこと。

 

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こちらが月光椿(がっこうつばき)。日光椿と同じ形ですが、花芯が白いのが特徴です。

書院の中から見られます。

書院では御所人形などの寺宝や、狩野永徳円山応挙の襖絵などが公開されています。

 

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さきほど降った雨で、より艶やかに。

 

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いつまでも見飽きることのない美しさでしたが、閉門の時間になってしまいました。

また来ます。

 

霊鑑寺から南へ歩くと、やはり椿の美しい大豊神社(おおとよじんじゃ)があります。

椿ヶ峰の麓にあり、そこから流れてくる御神水でも知られています。

摂社の大黒社には可愛い狛ネズミさんがいますよ。


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          ”霊鑑寺とセットで来てね!”

【京都府立植物園】天才的数学者 岡 潔 の言葉を添えて

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小さく見えるのが比叡山。啄木「やわらかに柳青める北上の」ならぬ柳青める北山の…。

(植物園 北山門付近にて。訪問日:2020年3月18日)

 

数学者の岡潔(おかきよし)をご存知ですか。数学史上最も偉大な業績を残した学者の一人です。

1901年生まれ1978年に逝去した岡潔ですが、私が知ったのは没後30年以上も経ってからです。

大数学者でありながら、思想家でもある彼のエッセイや対談集を読んで衝撃を受け、いくつかの言葉が今も鮮明に心に残っています。

 

最も衝撃を受けたのが、最初に読んだ『春宵十話』のいきなり1行目。数学者とは思えない一言から始まります。

「人の中心は情緒である」

 

今日、ふと思い立ち植物園を散歩していて、岡潔の言葉がいくつも浮かんできました。

春爛漫を迎えた植物園の美しい花々と共に、その人物像と言葉を紹介します。

 

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桜かな…と思ったら

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杏(あんず)でした

 

「大学(京都帝国大学理学部)卒業後、(フランスソルボンヌ大学への)留学前の時期に植物園前に住んでおり、植物園の中を歩き回って考えるのが好きだった」(p.38)

 

子どもの頃から秀才だったのかと思いきや…

 

「小学校六年になると応用問題にむずかしいのがあり、碁石算や鶴亀算がうまく解けた記憶がない。(和歌山)県立粉河中学の入試にも落ちてしまった」

「中学二年のとき初めて代数を習ったが、三学期の学年試験では五題のうち二題しかできなかった」(pp.20-21)

 

そんな彼でしたが、偶然読んだ数学書の定理に「神秘感」をもち、数学の世界にのめり込んでいきます。

 

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「私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えてきた」(p.3)

 

世間の評価や利益の有無を気にするのではなく、ただ学ぶ喜び、発見する喜びがあるゆえに、その喜びを食べて生きているというのです。

他者との比較とは無縁に、精一杯自らの今を生きる植物に似ていませんか。

 

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寒緋桜(カンヒザクラ)。名前の通り、早いものは1月から咲く深紅の花

 

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河津桜(カワヅザクラ)。その奥が半木神社の鳥居。

 

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ボケの花は色々。

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ボケなんて名前つけられちゃって…と思うのも人間の勝手。この花のあずかり知らぬことですね。

瓜のような実をつけることから木瓜と書き「もっけ」と呼び、それが訛ったそうです。

きれいだなぁと見惚れていたら、カメラを持った女性が近づいてきて、「これはボケですよ。さっき、この先の池にカワセミがいたんですよ」と嬉しそうに話してくれました。

先程の河津桜の写真の向こうに写っている赤い鳥居が「半木神社」(なからぎ神社)。そこを取り囲むように池があり、そういえばカメラや双眼鏡を持ったバードウォッチャーがたくさんいました。   

                  

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賀茂川で見られる野鳥」看板より

 

ボケも、次に現れたサンシュ(👇)も、前回紹介した正法寺では幼木でした。こんなに大きく成長するとは驚きです。

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サンシュ(山茱)  和名はハルコガネバナ(春黄金花)   春を告げる花

「冬から春にかけてはぼくの大好きな季節なんですよ」(p.189)

 

岡潔は、「多変数解析函数論」における難問「三大問題」をたった一人で解き明かしました。一題解くだけでも大変な偉業なので、すべて解決したことで、海外では「岡潔」という研究組織があると間違われたのです。

 

どうしてそのような偉業を成し遂げることができたのでしょうか。

岡潔は次のように述べています。

 

「数学に最も近いのは百姓だといえる。種をまいて育てるのが仕事。数学者は種子を選べば、あとは大きくなるのを見ているだけのことで、大きくなる力はむしろ種子の方にある」(p.53)

 

これを読むと、魔法のように答えが見つかるかのようですが、そうではありません。ある時パッと花が開くには、土を耕し、肥料を与え、水を遣り、工夫を続ける知力と努力が要ると解釈できます。しかし知力や努力だけを延々と積み重ね続けるのではなく、あとは自然に委ねる… そうするとある瞬間に花が咲く、と言っているのです。

 

「発見の前に緊張と、それに続く一種のゆるみが必要ではないか」(p.38)

「自然の風景に恍惚としたときなどに意識に切れ目ができ、その間から成熟を待っていたものが顔を出すらしい」(p.39)

 

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ホソザクラ

 

考えても考えても分からない…それでも考える、という意識的プロセスを積み重ねていくことが大前提。

成熟の準備ができたところで、本人が無意識でいるときにインスピレーションが降りてくる、ということですね。アルキメデスも「わかった!」という瞬間、お風呂を飛び出したそうです。

寝起きやお風呂で閃くことは私たちも経験することですね。

 

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スノーフレーク

    「数学は芸術の一種である」 (p.134)

 

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トサミズキ。マンサク(まず咲く)の一種。

「私は花が大好きであり、そのことは私の人生にそれだけ豊かさをそえている」(p89)

 

一連の大発見は、彼の30代半ばから40代半ばにわたってなされました。その後奈良女子大で長らく教授を務め、「奈良は日本文化発祥の地、ほんとうに良い所だ」と述べています。

 

奈良女子大学退官後、京都産業大学教授となり、「日本民族」を講義しました。岡潔は数学者であると同時に、教育に関しても熱い信念がありました。古事記をはじめ日本文化や宗教についても徹底した考察をおこないました。突き詰めると、晩年の彼が繰り返し主張したことは、情緒の民である日本人らしく、「真・善・美」を追求せよ、という教えです。

 

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天を突くような巨木がこんなに揺れるほど、突如風が吹いてきた。

 

最後に、不穏な事態の終息が見えない今、岡潔が戦後の高度成長期(1960年代)に語った言葉を。

まるで今日のインタビューに答えているかのようです。

 

「ぼくはね、世界も日本民族もね、滅びなければいいがと思っているんですよ。いまは暗黒時代なんです。みんな眠っている。目覚めているのは百人に二人くらい。いまはギリシア時代の真善美が忘れられてローマ時代にはいっていったあのころと同じことです。軍事、政治、技術が幅をきかしていた。人間の最も大切な部分が眠っていることにはかわりないんです」(『春宵十話』新春放談 p.193)

 

追記:京都府立植物園は2020年4月3日~12日を臨時休園とすると発表しました(3月31日)。(桜の満開時期に混雑が予想されるため) 

 

 

引用文献:

岡潔 『春宵十話』 (光文社文庫, 2011)

 

参考文献:

岡潔 『春風夏雨』 (角川ソフィア文庫, 2015)

小林秀雄岡潔 『人間の建設』 (新潮文庫, 2011)

wikiwand: https://www.wikiwand.com/ja/%E5%B2%A1%E6%BD%94

 

 

【洛西 正法寺】静謐な古刹で心静かにお花見

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昨年(2019.3.30 土曜日) 極楽橋で迎えてくれたシダレ桜。 いち早く満開。 この橋の向こうが正法寺


今回は、お花見客でごった返すことのない、静かで清涼感ただよう早春の「正法寺」をご紹介します。

 

正法寺(しょうぼうじ)京都市西京区にある東寺真言宗の古刹です。すぐ近くには「花の寺」として有名な「勝持寺」(しょうじじ)があります。また、北向かいには大原野神社」(おおはらのじんじゃ)があります。

 

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霧雨の中、遍照塔をバックに。枝垂れ桜の大きな傘。

 

*ちょっと脇道へ*

京都市の桜(ソメイヨシノ)の開花宣言~満開までの日数

その年によってかなりばらつきがあります。

ソメイヨシノより約1週間早くシダレ桜が、約1週間遅くベニシダレ桜が満開になります。

2018年 開花:3月22日 ☞6日後 満開3月28日 

2019年 開花:3月27日 ☞9日後 満開4月5日(一旦寒気が戻ったため) 

2020年 開花予想:3月20日(平均は3月28日なので、とくに早い!)      

 追記:2020年開花は3月22日 ☞8日後 満開3月30日でした。

Location

京都市西京区 大原野 南春日町1102

JR 向日町 / 阪急 東向日 から 阪急バス65系統 終点「南春日町」 徒歩10分

車の場合:無料駐車場があります。

大原野神社には有料駐車場があり、係の方は正法寺への拝観時間も駐車を許可してくださいました。(混んでいる場合は許可されないかもしれません)

 

History

創建は奈良時代に遡ります。

天平勝宝6(754)年、鑑真和上が苦難の末、奈良の都に辿り着きました。鑑真にお伴して渡来し、唐招提寺に住持した高弟の一人、智威大徳(ものすごく徳が高かったとか)がこの場所に隠棲して禅坊を結んだのが始まりです。

鞍馬寺の創建も、鑑真和上のお弟子さんでしたね)

 

この智威大徳の「春日禅坊」を、平安時代伝教大師最澄が大原寺(だいげんじ)の名で寺としました。

大原野神社は「おおはら」、大原寺は「だいげん」です。神社は訓読み、寺は音読みするのが一般的です)

その後、智威大徳に心酔した弘法大師空海が毎日のように訪れました。そして厄除けの「聖観世音菩薩」を彫刻したと伝わります。当時の弘法大師高野山を開く前で、近隣の乙訓寺の寺務長でした。時代がくだって江戸時代になると、ここは「西山のお大師さん」として庶民から信仰されました。

 

応仁の乱で焼失しましたが、元和元年(1615)に正法寺として再興されました。元禄年間(1680~1703)には徳川綱吉の母、桂昌院の帰依を受けて、徳川家の祈願所となりました。

桂昌院は、「玉の輿」の由来となったお玉さんです)

 

*ちょっと脇道へ*

正法寺」の「正法」とは?

仏法(仏が悟った真理)のことです。

密教では「三輪身」といって、仏(如来)が、救済しようとする相手によって姿を変えるとされます。本来の姿「如来」は「自性輪身」、「菩薩」として教法を説いて救済する姿が「正法輪身」、

調伏しがたい衆生を「明王」の憤怒の姿で救済するのが「教令輪身」といいます。

ここ正法寺は、観音菩薩が仏法を授ける寺として命名されたのだと思います。

 

【本堂】本尊:三面千手観世音菩薩(国・重要文化財

頭上には小さな頭(化仏)がたくさんついていますので、一見すると十一面観音のようです。しかし本面の左右に同じ大きさのお顔がついていますので、三面千手観音と呼ばれています。「過去」「現在」「未来」にわたって救いの手を差し伸べることを意味しているそうです。高さが2m以上あり、優しいオーラが伝わってきました。

 

この日は寒かったのですが、本堂のホットカーペットの暖かさがとても嬉しかったです。

お大師さん作とされる聖観音をはじめ、数々の仏像が祀られていますので、ゆっくり拝観することができました。

 

正法寺は「石の寺」としても知られています。本堂に向かって左手の「客殿」(宝生殿)「鳥獣の石庭」には、象や獅子、ウサギや亀、蛙やフクロウなどに見立てた数々の石が置かれています。晴れた日には、東山連峰の南端が遠望できますが、この日は雨でした。ここにある紅枝垂れ桜はまだ開花前です。

(東山連峰を借景に、満開の紅枝垂れ桜の下に遊ぶ石の鳥獣たちは、たくさんの方がウェブ上に写真を掲載されています)

 

代わりに、しっとりと咲く美しい花々を楽しむことができました。

 

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ボケ(木瓜) 

そのまま連れて帰りたいような可憐さ。

 

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サンシュ(山茱)  和名はハルコガネバナ(春黄金花)

春を告げる花とされています。                          

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【春日不動堂】本尊:春日不動明王

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お堂の前の紅枝垂れ桜もまだ開花前でした。極楽橋の枝垂れ桜と違って、遅咲きです。

 

正法寺の前身を春日禅坊と呼んだとおり、このエリアは昔も今も「春日」という地名です。

地名の元になっているのは、真向かいにある大原野神社だと思います。大原野神社は、奈良「春日大社」の神々を勧請したことに始まるからです。長岡京遷都から平安京遷都後も皇室や藤原家ゆかりの土地でした。

 

こちらの不動明王は凛々しいお姿ですが、憤怒というより、優しいお顔のチャーミングなお不動さまに見えました。

 

このお堂の廊下には「水琴窟」があり、竹筒を通してきれいな音色が聞こえてきます。

そこから見える庭がとても美しいです。築山、樹木、岩石…すべてが調和しています。

 

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不動堂の奥には「稲荷殿」があります。不動堂から出なくても、赤い鳥居とその向こうの社殿に参拝できます。ここの春日稲荷こそ、日本最古のお稲荷さんだそうです。

  

*ちょっと脇道へ*

お使い役の白狐

智威大徳は90歳を越えても禅坊に籠りきりで仏道に励んでいました。このときお世話をしていた老翁に付き従う白狐がいました。白狐はお使いとなって天からの恵みをもたらしたり、人々のお布施や手紙を運んできたそうです。93歳になった智威は、石窟で座禅をしながら入定しました。

智威の入滅後も、白狐だけが石窟の前にひかえていたそうです。これを見た人々が、境内に小さな祠を建て「狐王社」としたのでした。

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狐は稲荷信仰では眷属ですが、ここでは神様そのものとして崇められているのですね。

 

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早春の花々を見に行かれる季節に間に合うよう、昨年の様子を記しました(2019年3月30日)。遅咲きのベニシダレ桜が満開になる頃が圧巻のようですが、桜が終わるとサツキやツツジが咲き誇るそうです。さきほどアップした春告げ花「サンシュ」は秋になると真っ赤な実をつけるようですし、燃えるような紅葉も楽しみです。

 

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最後まで花が見送ってくれました。

 

 

参考文献:

正法寺のパンフレットおよびHP: http://www.kyoto-shoboji.com/index1.htm

京都府歴史遺産研究会編『京都府の歴史散歩(上)』(山川出版社, 2014)