【京都検定】古都学び日和

癒しと気づきに溢れる古都の歴史散歩

【平野神社】神道とは「今」を生きること

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倒壊前の拝殿(手前) 奥が本殿

桜の季節 — 待ち遠しいような、もっとゆっくり来てほしいような、落ち着かない気持ちになります。まさに、在原業平の❝世の中に桜がなければ、春の心はのどかなのになあ❞という歌そのものです。

しかも、現在のコロナ禍では、花盛りを謳歌する賑わいも避けなければなりません。

今回は、台風被害で30本も失われた平野神社の桜と拝殿に思いを馳せながら、神社の歴史と宮司の言葉を心に刻んでおきたいと思います。

歴史ある拝殿が倒壊 

2018(平成30)年の大型台風による被害で、見るも無残な姿になった拝殿。

再建が進み、2022年春に完成予定とのことですが、歴史ある拝殿は失われました。倒れてしまった30本もの桜は、ボランティアの手で撤去作業が行われたそうです。

形あるものはいつか消えることをまざまざと思い知らされました。

倒壊した拝殿は、東福門院(後水尾天皇中宮)により江戸初期に建立されたものでした。釘を使わない接木を用いて建てられ、建築家の模範とされてきた貴重なものです。

内部に飾られていた三十六歌仙の額はどうなったのか、気になります。造立当時の絵師、海北友雪(かいほうゆうせつ)*が描いたものです。火災ではないので、修復可能なら良いのですが。

*海北友雪:清水寺本堂の大きな絵馬を描いた人物。建仁寺方丈の雲龍図を描いた海北友松の子。

本殿とご祭神

桓武天皇平安京遷都に伴い、794年創建の平野神社

平城京田村後宮から神様を遷したのが始まりです。後宮」とは、皇后や妃の殿舎。つまり、女性が住み、子供を育てる場所です。だからこそ後宮に鎮座していた神様は皇太子親祭(自ら祭祀をおこなう)対象となりました。平安中期は、伊勢神宮上賀茂神社下鴨神社石清水八幡宮松尾大社に次ぐ名社に数えられました。以降、臣籍降下した源・平・菅原・秋篠など各家の氏神として崇敬されました。

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比翼春日造の本殿

さて、ご祭神ですが、私はてっきり春日大社の四神と同じだと思い込んでいました。

本殿が、左右に二神ずつ祀る「比翼春日造」と称されているからです。

京都検定のために暗記をしていたに過ぎず、「平野神社」=「比翼春日造」…名称と漢字を間違わずに書けるかどうか、というどうでもいい勉強をしていたことを恥じています。

 

ご祭神の四柱は、まったく知らない神様でした。

〇第一殿:今木皇大神(いまきのすめおおかみ)

〇第二殿:九度大神(くどのおおかみ)

〇第三殿:古開大神(ふるあきのおおかみ)

〇第四殿:比賣大神(ひめのおおかみ)

 

しかし、先に述べた「後宮」の意味を意識し、神様の名前をよ~く見て声に出すと、ストンと納得します。

主祭神の今木皇大神は後ほど述べるとして、

九度大神は くど=おくどさん=竈(かまど)の神

古開大神の「古」は「ふる」=神道でいう「魂ふり」、「開」は「解き放つ」「明らかにする」という意味から邪気を祓う神

比賣大神はその名の通り、女性性を表すので、「生産」の神

そして主祭神の今木皇大神については、またも早とちりしそうになりました。

大辞泉を引くと、「今木」=「新来」、つまり渡来系の神、桓武天皇外戚の祖神説が書かれています。「そうか、桓武天皇のお母さん(高野新笠)は百済の人だから」と妙に納得してしまいました。しかし、この説を神社は否定しています。江戸時代の国学者による改ざんがあったというのです。

神社では今木皇大神を「源気新生」の神、としています。「今」=現在、「木」=大きく太くまっすぐに育つ樹木の神という解釈です。

そう考えると、生まれてきた子がすくすくと成長するよう、食を中心とした生活安定や邪気払いの神々を後宮に祀っていたことに納得します。(当初は今木・九度・古開の三神だったようです)

宮司の言葉

久しぶりに10年ほど前に読んだ集英社の『古社名刹 巡拝の旅』を引っ張り出しました。

当時は読み流してしまっていた宮司の尾崎保博さんの言葉が、今は心に沁みます。以下、引用です。

仏教は、法を説く仏の教えであるのに対し、神道は「道」。神は人の生活の中にあって、歴史をつなぐ存在。歩いてみて解ることであり、そこに教えはないのです。その「道」とは何か? それは先祖が歩んできた道を歩んでいくことに他なりません。伝統を伝える歩みのラインの、その線上の「今」を歩むことそのものに、意義が見いだせるのではないでしょうか。

 

まさに「中今」思想ですね。刹那的な今ではなく、途方もない年月をかけ、途方もない数の先祖が命をつないでくれたからこその、延長線上にある「今」。

物質は台風で壊れたり、失われたりしても、精神は生き続けるし、新しい樹木はまた育っていく。いろいろなことが起こっていても、「今」無事でいられることに感謝して、目の前のことをしっかり進めていこうと思います。

桜の季節になり、平野神社が気になったことから、あらためて歴史を学び直し、浅薄な知識を恥じ、最後には一番大事なことを再認識することができました。

 

🌸桜花祭について🌸

菅原道真をしのぶ北野天満宮の「梅花祭」(2月25日)と共に、平野神社の「桜花祭」(4月10日)も京都を彩る花の祭事です(平野神社は、天神川をはさんで北野天満宮の北西に位置する)。

桜花祭は、花山天皇が境内に桜をお手植えされた故事にちなみます。花山天皇といえば、藤原兼家の策謀により、わずか19歳で出家、「西国三十三所巡礼」を再興したことでも知られています。

(花山天皇を追いやった後、藤原兼家の子、道長が権勢を振るう時代がやってきます)

平野神社からほど近い北区衣笠に、花山天皇(40歳で崩御)の御陵があり、祭りは御陵への奉告で幕を開けます。

天平時代から元禄時代までの雅な時代風俗列も有名ですが、今年は祭事のみ執り行われるようです。

 

参考文献:『古社名刹 巡拝の旅』40号(集英社, 2010年)

平野神社Official Website: https://www.hiranojinja.com/home/revive

【東山三十六峰を歩く】瓜生山

ラクル連続の人生初トレッキング

雲一つない秋晴れ、風速0m、絶好のタイミングを見つけて、トレッキング・デビューをしました。

服部嵐雪が「布団着て寝たる姿や東山」と詠んだ、なだらかな稜線が続く東山三十六峰。北端は比叡山、南端は伏見の稲荷山です。京都一周トレイルの東山ルートとも重なります。山歩き初心者の私が最初に選んだのは瓜生山(うりゅうやま)比叡山から数えて八つめです。この山にまつわる幾つかのエピソードに心惹かれていました。

 

「瓜生山」は、素戔嗚尊スサノオノミコト)と同一視される牛頭天王(ごずてんのう)が降臨した地。好物の瓜が一夜にして実ったことに由来する名です。神話の舞台であり、その後数々の歴史上の人物が往来した史跡でもあります。標高301m。

 

出発地点は市バス「北白川別当町」(白川通)から東に入った「バプテスト病院」駐車場。

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歴史と自然を両方味わえる期待感でワクワクします。

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もう、せせらぎが聞こえてきます。

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いよいよ山道へ

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まずは地龍大明神にご挨拶

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ここで最初のミラクルが起こりました。

 瓜生山の主、地龍大明神

小さな社殿に向かって手を合わせ「今日、ここに来られて幸せです」と伝えると、真後ろの鳥居からサーッと爽やかな風が吹いてきました。優しくて心地よい風でした。嬉しくなって、

「写真を撮ってもいいですか? ブログで紹介してもいいですか?」と聞くと、突然「バラバラバラツ」という大きな音と共に何かが降ってきました。社殿の脇に大量のドングリ(笑)! 頭上を避けて落としてくれたので、OKみたいです。

由緒書きによると、地龍大明神は瓜生山の主神だそうです。

 

この地龍大明神は、山霊の神々を合祀した「大山祇(おおやまづみ)神社」の中にあります。山に登らず、この神社にお参りするだけでもパワーを頂けます。大山祇神社は鳥居があるだけで社殿はありません。山自体がご神体のようです。そのくらい辺りから神気を感じます。ご祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)とその娘、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と書いてありました。

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神気に満ちた大山祇神社

この鳥居の前では、清らかな小川のせせらぎと鳥の声が聞こえます。

 

 

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猪や猿などの「野生生物に注意」の看板にビビりながらも、木漏れ日の差す心地よい山道を歩きます。他には誰一人歩いていません。

 

茶山山頂に到着

20分ほど歩くと、平らな場所に出ます。計らずも東山三十六峰第七番の「茶山」山頂でした。標高180mですが、高野~松ヶ崎一帯の街並みが見下ろせます。向いには五山の送り火の船形山も見えます。

 

 

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茶山山頂からの眺め

麓を西に行くと、叡電の「茶山」駅。以前からなぜ「茶山」なのかな~と思っていましたが、謎が解けました。ここは茶屋四郎次郎の別荘があったそうです。茶屋四郎次郎家といえば徳川幕府御用呉服商であり、京の情勢を家康に進言していたことでも知られています。初代清延の頃、足利義輝が茶を飲みに邸宅を訪れていたことに因み、屋号が「茶屋」となったそうです。

家康から許可された朱印船貿易で巨万の富を得、京の三長者に数えられました。別荘のあったこの地は、現在京都芸術大学の敷地になっています。

 

白幽子巌居跡へ

ここからの道は急斜面が続き、息が切れて何度も立ち止まって休憩しました。(元気な方なら全然なんてことない道だと思います) 風もなくシャツ一枚でも汗ばむ陽気でしたが、立ち止まる度に、木の梢が大きく揺れるほどの風が吹いてくれました。あまりにタイミングの良い強めの風の応援もミラクルでした。

 

15分ほどで「白幽子巌居之跡」(はくゆうし・がんきょのあと)到着。瓜生山に来たかった理由の一つがこの場所です。

江戸中期に禅を民衆に広めた白隠は、臨済宗中興の祖として有名です。その白隠の命の恩人が白幽子という仙人です。まさにこの地に巌居していました。

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白幽子(国立国会図書館デジタルコレクション『近世畸人伝』112)

☝こんな姿だったようですが、元は詩仙堂を造った石川丈山の弟子でした。丈山の死を看取った後、ここに隠棲していました。鹿や猿と会話し、人を避けて暮らしていたそうです。

白隠を救った白幽子

一方、過酷な修行により心身をすり減らし、肺病を患っていた白隠(当時26歳)は、医術の秘法を操る仙人の噂を聞いて、美濃の国から瓜生山にやって来ました。

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実物の岩窟は予想以上に大きかったです。パノラマ撮影すれば良かった…。

一目で白隠を「ただ者ではない」と見抜いた仙人は、「内観気海丹田の法」を授けます。この「内観の法」で白隠は健康を取り戻し、以後の活動で歴史に名を刻むことになります。そして、なんと84歳まで生きたというのです!

 

白隠は白幽子に秘法を授かったことを『夜船閑話』(やせんかんな)という書物に記します。

この「白・白」エピソードを知った富岡鉄斎が、この霊地保存を発起し、写真にも写っている石碑を刻みました。

 

立ち去りかけて、「あ、私もあやかろう」と戻ってお願いをしました。するとまた周囲の木々の梢がサラサラと音を立て、風が吹き、今度は枯れ葉がシャワーのように降ってきました。

またもミラクルです。

 

元気をもらって先へ進みます。清沢口石切り場石仏や石燈籠を造るため花崗岩を切り出していた所)を過ぎると、さらに狭い急坂になり、足元も危なくなってきました。

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どちらに進めばいいか分からない所では、木に赤いリボンが結ばれています。

休み休み、歩くこと20分、瓜生山山頂に到着です。

 

瓜生山山頂到着!

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大文字山(如意ヶ嶽)とその先の山々も見えます。

山頂は小さな広場になっていて、周囲を木々が囲んでいます。

1匹のオレンジ色の蝶が出迎えてくれました。くるくる周りを飛んでは、地面に止まるのを繰り返しています。

         

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小さな祠があり、「幸龍大権現」と書いてあります。ここが麓の狸谷山不動尊奥の院とのこと。お参りしたちょうどその時、「ドン・ドン・ドン!」と太鼓が響いてきました。本堂で鳴らされているようです。ここでも歓迎されたようで嬉しくなりました。

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この祠の裏の石室に、かつて「勝軍地蔵」が祭られていました。

この狭い山頂は、「北白川城」本丸跡です。戦国時代には「如意ヶ嶽城」と共に足利将軍家管領細川家、三好長慶松永久秀らが攻防を繰り返した、と案内板に書かれています。

戦勝を祈願し「勝軍地蔵」が祀られた(近江の六角氏により)、というのも頷けます。

まさに「兵どもが夢の跡」。今はのどかで清らかな気に包まれています。

 

置いてあった太い木の枝に座って、ゴマ団子をほおばり、青空を仰ぐ至福のひと時。

遂に誰一人出会うことはありませんでした。

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ホルンフェルスを形成した瓜生山

ブラタモリでもやっていた「ホルンフェルス」ご存知でしょうか。

ホルンは horn 「角」です。フェルスは felsen 「崖」。

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京都市青少年科学センター)

白亜紀(9千500万年前)、この瓜生山の下にマグマが貫入して高い山が形成されました。そのマグマの高熱によって比叡山南側と大文字山北側が硬くて緻密な岩石になりました。熱変性を受けた岩石は浸食を免れて、現在「角」のように見える形で残りました。比叡山大文字山です。一方、真ん中で冷えたマグマは花崗岩となって日光や風雨による浸食を受け、どんどん低くなっていきました。流れ出した花崗岩白川砂となって扇状地を作ったのです。

 

この白川砂が枯山水庭園に用いられるようになりました。先ほど見たように、花崗岩そのものは石仏や石燈籠に用いられています。気の遠くなるような太古の地球の動きが、現在の京都文化につながっている、と思うと感慨深いです。

この瓜生山が比叡山より高かったというのも驚きです。とてつもない長い歳月を経て現在の地形になったことが分かりました。

 

下山中に味わったスリル💧

4時までに下山すれば狸谷山不動尊にもお参りできるかな、と思い山頂を後にしました。

ところが、余裕で間に合うと思ったのに、道を間違えてしまいました。

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「本堂近道」という小さな立て札が足元にあったので、矢印の通り細い道を分け入ったのですが、少し歩くと道がなくなりました。不安になりながらも先へ進むと…

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つかまって下りていきます。ところが…

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本堂の舞台が見えた!と思ったのに…

斜面が急すぎてとても下りることはできません。探してみても他に道が無いどころか「キケン 下りるな」と貼り紙と共に紐が張られている始末。

まじか…と言いながら、あの鎖を頼りに戻ります。

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この山で修験者気分を味わうとは想定外

なぜ「近道」なんて札を立てたのでしょう。少し腹が立ってきました。

日も傾いてきて、寒くなってきました。「山、なめんなよ」という天狗さんの戒め?

 

元の分かれ道に戻り少し行くと、曼殊院方面への矢印があったので、ほっと一息。

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初めからこの道を行っていれば15分くらいで本堂まで下りられたはずです。

道は比叡山方面へ続いていますが、私は不動尊へ向かいます。

 

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童子」が導いてくれます。

虚空蔵童子像がありました。本堂から奥の院に向かうための目印です。これが「第十四番」。下るにつれ「第十三番」「第十二番」…

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「第一番」金伽羅童子像まで下りてきました!

鳥居があり、この山は信仰の山だと改めて思いました。

 

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狸谷山不動尊清水寺と同じ舞台造りで知られる真言宗修験道大本山

やっと到着した時には午後4時1分。閉門時間は4時です。残念。

この先延々と続く階段250段が、疲れた脚にとどめをさしてくれましたが、なんだか楽しかったです。階段の途中で弘法大師像の大きな背中が見えた時もほっとしました。

 

境内を出て、同じ道(曼殊院道)をずっと下っていき、「一乗寺降魔不動明王」(大きな不動明王の石仏。その前にベンチがあって一息つけました)、八大神社(『宮本武蔵』で有名)に参拝。目の前が詩仙堂です。あの白幽子は、この詩仙堂を造った石川丈山の弟子でした。地理的にも一直線に繋がっているのだと分かりました。

 

目まぐるしく心が動かされた半日でした。

次元の違う見えない世界を感じたようで嬉しくなったり、森林の澄んだ空気を味わったり、白亜紀から戦国時代という壮大な歴史に思いを馳せたり、伝説だと思っていた白幽子が確実に住んでいた巌居を感慨深く見たり、ちょっとしたアドベンチャーで肝を冷やしたり。

石仏や庭園を形づくっている白川石や白川砂が、この瓜生山が生み出したものだと知ることもできました。

山歩きだからこそ、一歩一歩踏み占めながら大地を感じることもできました。

小さな山に秘められた奥深さが少しでも伝われば幸いです。

 

(訪問日10月15日。上りでは汗をかきましたが、夕方になると急に気温が下がりました)

【古知谷阿弥陀寺】心の中で参詣を

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長い参道の奥に見えてくる「実相の滝」と懸崖造りの茶室

今行きたいお寺はどこですか?と聞かれたら、真っ先に「古知谷阿弥陀寺(こちだに・あみだじ)」と答えます。

文字通り谷あいにひっそり佇む浄土宗の古刹、京都検定がなければ名前すら知ることはなかったでしょう。

 

外出自粛が続く折、実際に訪れることはできませんが、2017年7月と2019年5月に訪ねたときの思い出を綴りながら、心の中で参詣をしようと思います。

 

参道に足を踏み入れたら別世界

左京区大原古知平町にある阿弥陀寺寂光院から、若狭街道を車で5分ほど北上して左折すると、山門に到着です。

 

最初に訪ねたのは7月下旬、市街地では京都特有のじっとりとした暑さに参ってしまう頃ですが、ここは避暑地のようです。

巨木に挟まれた急坂の参道が見えてきます。

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参道に足を踏み入れた瞬間、サッと冷気に包まれるのを感じ、一同(妹二人と義弟と)びっくり…。

「神気、森に満つ」を体感できました。

 

ひんやりとした美味しい空気を呼吸しながら、爽やかな沢の音を聞き、樹木や苔の緑を愛でつつ、ゆったり歩きます。

私たち以外誰もいません。静寂そのものです。

 

やがて、樹齢800年以上の「古知谷カエデ」が現われます。谷あいによく見られるイロハモミジですが、風雪に耐えてきたのでしょう、独特な形状です。阿弥陀寺は慶長14 (1609)年に創建されましたが、その時すでに古木だったと寺伝に書かれているそうです。

 

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白蛇が棲むという伝承も。

古知谷一帯は、この老木を中心にたくさんのカエデが秋を彩るそうです。

 

古知谷カエデのすぐそばには、二段に分かれた「実相の滝」。時期によってはもっと水量が多いようですが、この時も清涼感を放っていました。この沢川はやがて高野川上流に注ぎます。

参道を歩き始めて20分ほどで到着です。正面には懸崖造りの茶室が見えています。

 

次回は誰が迎えてくれるかな

石段を登って本坊に向かう途中、銀色のトカゲさんの歓迎を受けました。

陽を受けて輝いて、まるで神様の使いのようです。

 

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2年後の5月に訪ねた時には、ここで瑠璃色のトンボさんが迎えてくれました。

私たちの目の前で、石段に降りたり、手すりに止まったり…を繰り返しながら上まで誘導してくれたのです。

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広々とした本坊と九輪草の庭

拝観入口のある本坊にお邪魔します。誰もいない畳敷きの広間は寝転がりたい!と思うほど広々としています。

そこから降りられる庭には、5月には色とりどりのクリンソウ(九輪草)が咲いていました。サクラソウの一種です。

 

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「九輪」とは、寺の塔のてっぺんについている相輪の一部です。

花は九輪のように輪状に咲くことから名付けられました。

日本人らしい命名ですね。
 

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学名「プリムラジャポニカ」 山地の湿地や沢沿いに生育 (「みんなの花図鑑」https://minhana.net

本坊からの渡り廊下は、開祖・弾誓上人のミイラが安置されている巌窟につながっています。

 

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即身仏となった木食上人弾誓

木食(もくじき)とは、固有名詞ではなく、草木しか食べない修行僧のことです。穀物さえも断ち、草や木の実だけを食して行を受ける人たちです。

 

弾誓(たんぜい)は尾張出身の木食僧で、念仏三昧をしながら諸国行脚していました。最後の修行地として58歳の時に古知谷へやってきました。慶長14 (1609)年のことです。

 

写真の廊下の先にある巌窟は、入定を決めた弾誓上人が、弟子たちに頼んで掘らせた石廟です。

松の実だけを食べて身体を樹脂化した上人は、石廟の中の石龕(せきがん)に生きながら入り、ミイラ佛となったのです。62歳でした。

石龕にいらしたミイラ佛は、明治時代に今私たちが目にする石棺に収められました。

 

お参りをして、巌窟の中に入り、石棺のすぐ近くまで行くことができます。暗いのでペンライトも置いてありました。

‟入ってもいいのかな…“ 畏れ多い気もしましたが、生身の阿弥陀仏になられた弾誓上人にご挨拶をしました。

巌窟の中は一層ひんやりして霊気が漂っていますが、怖くはありませんでした。

 

この石廟はちょうと本堂の裏にあたります。

 

本堂の仏さま

本堂(開山堂)にお参りします。正面の本尊は、弾誓上人自らが掘った自像で、「植髪の弾誓仏」と呼ばれています。自らの頭髪を植えたのですが、今は両耳脇に少し残っている程度です(がよく見えませんでした)。

 

脇には創建当初のご本尊、阿弥陀如来(重要文化財)が祀られています。鎌倉時代の作で、キリリと引き締まったお姿です。

浄土宗では、ひたすら念仏(南無阿弥陀仏)を唱え、浄土での幸福を願います。浄土は彼岸、彼方(かち)です。

古知谷(こちだに)の名は、「此方(こち)」に由来するという説もあるようです。

 

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本堂(開山堂)

本堂から外を見ると、私たちが「ゴレンジャー」と呼ぶ「五智如来像」が並んでいます。

 

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古知谷ゴレンジャー。真ん中が大日如来

外に出て、再び沢の音を聞きながら日光浴&森林浴です。

清浄な空気にほんとうに癒されます。

 

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この後また本坊に戻って、寛いでいるうちに閉門の時間となってしまいました。

長居させて頂いて感謝でいっぱいです。

 

お寺のパンフレットには、「新緑のすがすがしさを求めて拝観の人達も少しずつ登ってこられますが、静寂さは失われることはありません」と書かれています。またいつか、ここでゆっくり時を過ごせるのを楽しみしています。

 

 

 

 

【京都 霊鑑寺】通常非公開。春の特別公開で迎えてくれる椿の数々。

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下段左の深紅が「日光椿」(じっこうつばき)。後水尾上皇遺愛の椿です。

(訪問日 2020年3月22日)

庭園に入ってすぐのところに日光椿の木があり、見事な満開でした。見惚れてしまって、写真を撮るのを忘れてしまいました。3年目にして初めてタイミングよく見られたのに…

 

春の特別公開は、毎年お彼岸の頃から約2週間です。できれば公開後早めに訪問する方がたくさんの種類の椿が見られると思います。

 

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銀閣寺から南禅寺に至る哲学の道(琵琶湖疏水)。その中間地点を東へ上ったところにあります。

左京区鹿ケ谷にあるので、「谷御所」(たにのごしょ)、「鹿ケ谷比丘尼御所」(ししがたにびくにごしょ)とも呼ばれます。後水尾上皇が、皇女多利宮(たりのみや)を比丘尼(得度した尼僧)にして入寺させたことに始まります。

 

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霊鑑寺は「霊験あらたかな鑑(かがみ)」からその名がつけられました。本堂の如意輪観音(外から拝むので遠いのですが)の蓮華座下部に置かれていた丸い鏡に因むそうです。

この如意輪観音は、恵心僧都源信作で、後方の如意ヶ嶽にあった如意寺(廃寺)の本尊でした。如意ヶ嶽の一部が送り火のおこなわれる大文字山です。つまり、霊鑑寺は大文字山からの稜線上にあるのです。

 

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稜線を活かしているので、高低差がある美しい庭が形成されています。

今回は美しい苔庭と椿の写真をメインにお届けします。アートそのものの世界です。

 

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苔の種類も様々でした。

 

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雨がポツポツ降り出しました。

 

この後、蔵の屋根の下に設けられた腰掛に座って庭を眺めました。ちょうどよい雨宿り。

サアーーーッという心地よい雨音、高らかに繰り返されるホ~ホケキョ、鳴き交わす他の鳥たちの澄んだ声、そして…

ゴオ~ン … ゴォ~ン と鐘の音まで。

この時の三重奏はこれからも忘れないと思います。

 

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雨が止みました。花びらの絨毯のきれいだったこと。

 

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こちらが月光椿(がっこうつばき)。日光椿と同じ形ですが、花芯が白いのが特徴です。

書院の中から見られます。

書院では御所人形などの寺宝や、狩野永徳円山応挙の襖絵などが公開されています。

 

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さきほど降った雨で、より艶やかに。

 

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いつまでも見飽きることのない美しさでしたが、閉門の時間になってしまいました。

また来ます。

 

霊鑑寺から南へ歩くと、やはり椿の美しい大豊神社(おおとよじんじゃ)があります。

椿ヶ峰の麓にあり、そこから流れてくる御神水でも知られています。

摂社の大黒社には可愛い狛ネズミさんがいますよ。


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          ”霊鑑寺とセットで来てね!”

【京都府立植物園】天才的数学者 岡 潔 の言葉を添えて

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小さく見えるのが比叡山。啄木「やわらかに柳青める北上の」ならぬ柳青める北山の…。

(植物園 北山門付近にて。訪問日:2020年3月18日)

 

数学者の岡潔(おかきよし)をご存知ですか。数学史上最も偉大な業績を残した学者の一人です。

1901年生まれ1978年に逝去した岡潔ですが、私が知ったのは没後30年以上も経ってからです。

大数学者でありながら、思想家でもある彼のエッセイや対談集を読んで衝撃を受け、いくつかの言葉が今も鮮明に心に残っています。

 

最も衝撃を受けたのが、最初に読んだ『春宵十話』のいきなり1行目。数学者とは思えない一言から始まります。

「人の中心は情緒である」

 

今日、ふと思い立ち植物園を散歩していて、岡潔の言葉がいくつも浮かんできました。

春爛漫を迎えた植物園の美しい花々と共に、その人物像と言葉を紹介します。

 

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桜かな…と思ったら

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杏(あんず)でした

 

「大学(京都帝国大学理学部)卒業後、(フランスソルボンヌ大学への)留学前の時期に植物園前に住んでおり、植物園の中を歩き回って考えるのが好きだった」(p.38)

 

子どもの頃から秀才だったのかと思いきや…

 

「小学校六年になると応用問題にむずかしいのがあり、碁石算や鶴亀算がうまく解けた記憶がない。(和歌山)県立粉河中学の入試にも落ちてしまった」

「中学二年のとき初めて代数を習ったが、三学期の学年試験では五題のうち二題しかできなかった」(pp.20-21)

 

そんな彼でしたが、偶然読んだ数学書の定理に「神秘感」をもち、数学の世界にのめり込んでいきます。

 

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「私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えてきた」(p.3)

 

世間の評価や利益の有無を気にするのではなく、ただ学ぶ喜び、発見する喜びがあるゆえに、その喜びを食べて生きているというのです。

他者との比較とは無縁に、精一杯自らの今を生きる植物に似ていませんか。

 

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寒緋桜(カンヒザクラ)。名前の通り、早いものは1月から咲く深紅の花

 

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河津桜(カワヅザクラ)。その奥が半木神社の鳥居。

 

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ボケの花は色々。

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ボケなんて名前つけられちゃって…と思うのも人間の勝手。この花のあずかり知らぬことですね。

瓜のような実をつけることから木瓜と書き「もっけ」と呼び、それが訛ったそうです。

きれいだなぁと見惚れていたら、カメラを持った女性が近づいてきて、「これはボケですよ。さっき、この先の池にカワセミがいたんですよ」と嬉しそうに話してくれました。

先程の河津桜の写真の向こうに写っている赤い鳥居が「半木神社」(なからぎ神社)。そこを取り囲むように池があり、そういえばカメラや双眼鏡を持ったバードウォッチャーがたくさんいました。   

                  

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賀茂川で見られる野鳥」看板より

 

ボケも、次に現れたサンシュ(👇)も、前回紹介した正法寺では幼木でした。こんなに大きく成長するとは驚きです。

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サンシュ(山茱)  和名はハルコガネバナ(春黄金花)   春を告げる花

「冬から春にかけてはぼくの大好きな季節なんですよ」(p.189)

 

岡潔は、「多変数解析函数論」における難問「三大問題」をたった一人で解き明かしました。一題解くだけでも大変な偉業なので、すべて解決したことで、海外では「岡潔」という研究組織があると間違われたのです。

 

どうしてそのような偉業を成し遂げることができたのでしょうか。

岡潔は次のように述べています。

 

「数学に最も近いのは百姓だといえる。種をまいて育てるのが仕事。数学者は種子を選べば、あとは大きくなるのを見ているだけのことで、大きくなる力はむしろ種子の方にある」(p.53)

 

これを読むと、魔法のように答えが見つかるかのようですが、そうではありません。ある時パッと花が開くには、土を耕し、肥料を与え、水を遣り、工夫を続ける知力と努力が要ると解釈できます。しかし知力や努力だけを延々と積み重ね続けるのではなく、あとは自然に委ねる… そうするとある瞬間に花が咲く、と言っているのです。

 

「発見の前に緊張と、それに続く一種のゆるみが必要ではないか」(p.38)

「自然の風景に恍惚としたときなどに意識に切れ目ができ、その間から成熟を待っていたものが顔を出すらしい」(p.39)

 

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ホソザクラ

 

考えても考えても分からない…それでも考える、という意識的プロセスを積み重ねていくことが大前提。

成熟の準備ができたところで、本人が無意識でいるときにインスピレーションが降りてくる、ということですね。アルキメデスも「わかった!」という瞬間、お風呂を飛び出したそうです。

寝起きやお風呂で閃くことは私たちも経験することですね。

 

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スノーフレーク

    「数学は芸術の一種である」 (p.134)

 

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トサミズキ。マンサク(まず咲く)の一種。

「私は花が大好きであり、そのことは私の人生にそれだけ豊かさをそえている」(p89)

 

一連の大発見は、彼の30代半ばから40代半ばにわたってなされました。その後奈良女子大で長らく教授を務め、「奈良は日本文化発祥の地、ほんとうに良い所だ」と述べています。

 

奈良女子大学退官後、京都産業大学教授となり、「日本民族」を講義しました。岡潔は数学者であると同時に、教育に関しても熱い信念がありました。古事記をはじめ日本文化や宗教についても徹底した考察をおこないました。突き詰めると、晩年の彼が繰り返し主張したことは、情緒の民である日本人らしく、「真・善・美」を追求せよ、という教えです。

 

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天を突くような巨木がこんなに揺れるほど、突如風が吹いてきた。

 

最後に、不穏な事態の終息が見えない今、岡潔が戦後の高度成長期(1960年代)に語った言葉を。

まるで今日のインタビューに答えているかのようです。

 

「ぼくはね、世界も日本民族もね、滅びなければいいがと思っているんですよ。いまは暗黒時代なんです。みんな眠っている。目覚めているのは百人に二人くらい。いまはギリシア時代の真善美が忘れられてローマ時代にはいっていったあのころと同じことです。軍事、政治、技術が幅をきかしていた。人間の最も大切な部分が眠っていることにはかわりないんです」(『春宵十話』新春放談 p.193)

 

追記:京都府立植物園は2020年4月3日~12日を臨時休園とすると発表しました(3月31日)。(桜の満開時期に混雑が予想されるため) 

 

 

引用文献:

岡潔 『春宵十話』 (光文社文庫, 2011)

 

参考文献:

岡潔 『春風夏雨』 (角川ソフィア文庫, 2015)

小林秀雄岡潔 『人間の建設』 (新潮文庫, 2011)

wikiwand: https://www.wikiwand.com/ja/%E5%B2%A1%E6%BD%94

 

 

【洛西 正法寺】静謐な古刹で心静かにお花見

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昨年(2019.3.30 土曜日) 極楽橋で迎えてくれたシダレ桜。 いち早く満開。 この橋の向こうが正法寺


今回は、お花見客でごった返すことのない、静かで清涼感ただよう早春の「正法寺」をご紹介します。

 

正法寺(しょうぼうじ)京都市西京区にある東寺真言宗の古刹です。すぐ近くには「花の寺」として有名な「勝持寺」(しょうじじ)があります。また、北向かいには大原野神社」(おおはらのじんじゃ)があります。

 

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霧雨の中、遍照塔をバックに。枝垂れ桜の大きな傘。

 

*ちょっと脇道へ*

京都市の桜(ソメイヨシノ)の開花宣言~満開までの日数

その年によってかなりばらつきがあります。

ソメイヨシノより約1週間早くシダレ桜が、約1週間遅くベニシダレ桜が満開になります。

2018年 開花:3月22日 ☞6日後 満開3月28日 

2019年 開花:3月27日 ☞9日後 満開4月5日(一旦寒気が戻ったため) 

2020年 開花予想:3月20日(平均は3月28日なので、とくに早い!)      

 追記:2020年開花は3月22日 ☞8日後 満開3月30日でした。

Location

京都市西京区 大原野 南春日町1102

JR 向日町 / 阪急 東向日 から 阪急バス65系統 終点「南春日町」 徒歩10分

車の場合:無料駐車場があります。

大原野神社には有料駐車場があり、係の方は正法寺への拝観時間も駐車を許可してくださいました。(混んでいる場合は許可されないかもしれません)

 

History

創建は奈良時代に遡ります。

天平勝宝6(754)年、鑑真和上が苦難の末、奈良の都に辿り着きました。鑑真にお伴して渡来し、唐招提寺に住持した高弟の一人、智威大徳(ものすごく徳が高かったとか)がこの場所に隠棲して禅坊を結んだのが始まりです。

鞍馬寺の創建も、鑑真和上のお弟子さんでしたね)

 

この智威大徳の「春日禅坊」を、平安時代伝教大師最澄が大原寺(だいげんじ)の名で寺としました。

大原野神社は「おおはら」、大原寺は「だいげん」です。神社は訓読み、寺は音読みするのが一般的です)

その後、智威大徳に心酔した弘法大師空海が毎日のように訪れました。そして厄除けの「聖観世音菩薩」を彫刻したと伝わります。当時の弘法大師高野山を開く前で、近隣の乙訓寺の寺務長でした。時代がくだって江戸時代になると、ここは「西山のお大師さん」として庶民から信仰されました。

 

応仁の乱で焼失しましたが、元和元年(1615)に正法寺として再興されました。元禄年間(1680~1703)には徳川綱吉の母、桂昌院の帰依を受けて、徳川家の祈願所となりました。

桂昌院は、「玉の輿」の由来となったお玉さんです)

 

*ちょっと脇道へ*

正法寺」の「正法」とは?

仏法(仏が悟った真理)のことです。

密教では「三輪身」といって、仏(如来)が、救済しようとする相手によって姿を変えるとされます。本来の姿「如来」は「自性輪身」、「菩薩」として教法を説いて救済する姿が「正法輪身」、

調伏しがたい衆生を「明王」の憤怒の姿で救済するのが「教令輪身」といいます。

ここ正法寺は、観音菩薩が仏法を授ける寺として命名されたのだと思います。

 

【本堂】本尊:三面千手観世音菩薩(国・重要文化財

頭上には小さな頭(化仏)がたくさんついていますので、一見すると十一面観音のようです。しかし本面の左右に同じ大きさのお顔がついていますので、三面千手観音と呼ばれています。「過去」「現在」「未来」にわたって救いの手を差し伸べることを意味しているそうです。高さが2m以上あり、優しいオーラが伝わってきました。

 

この日は寒かったのですが、本堂のホットカーペットの暖かさがとても嬉しかったです。

お大師さん作とされる聖観音をはじめ、数々の仏像が祀られていますので、ゆっくり拝観することができました。

 

正法寺は「石の寺」としても知られています。本堂に向かって左手の「客殿」(宝生殿)「鳥獣の石庭」には、象や獅子、ウサギや亀、蛙やフクロウなどに見立てた数々の石が置かれています。晴れた日には、東山連峰の南端が遠望できますが、この日は雨でした。ここにある紅枝垂れ桜はまだ開花前です。

(東山連峰を借景に、満開の紅枝垂れ桜の下に遊ぶ石の鳥獣たちは、たくさんの方がウェブ上に写真を掲載されています)

 

代わりに、しっとりと咲く美しい花々を楽しむことができました。

 

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ボケ(木瓜) 

そのまま連れて帰りたいような可憐さ。

 

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サンシュ(山茱)  和名はハルコガネバナ(春黄金花)

春を告げる花とされています。                          

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【春日不動堂】本尊:春日不動明王

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お堂の前の紅枝垂れ桜もまだ開花前でした。極楽橋の枝垂れ桜と違って、遅咲きです。

 

正法寺の前身を春日禅坊と呼んだとおり、このエリアは昔も今も「春日」という地名です。

地名の元になっているのは、真向かいにある大原野神社だと思います。大原野神社は、奈良「春日大社」の神々を勧請したことに始まるからです。長岡京遷都から平安京遷都後も皇室や藤原家ゆかりの土地でした。

 

こちらの不動明王は凛々しいお姿ですが、憤怒というより、優しいお顔のチャーミングなお不動さまに見えました。

 

このお堂の廊下には「水琴窟」があり、竹筒を通してきれいな音色が聞こえてきます。

そこから見える庭がとても美しいです。築山、樹木、岩石…すべてが調和しています。

 

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不動堂の奥には「稲荷殿」があります。不動堂から出なくても、赤い鳥居とその向こうの社殿に参拝できます。ここの春日稲荷こそ、日本最古のお稲荷さんだそうです。

  

*ちょっと脇道へ*

お使い役の白狐

智威大徳は90歳を越えても禅坊に籠りきりで仏道に励んでいました。このときお世話をしていた老翁に付き従う白狐がいました。白狐はお使いとなって天からの恵みをもたらしたり、人々のお布施や手紙を運んできたそうです。93歳になった智威は、石窟で座禅をしながら入定しました。

智威の入滅後も、白狐だけが石窟の前にひかえていたそうです。これを見た人々が、境内に小さな祠を建て「狐王社」としたのでした。

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狐は稲荷信仰では眷属ですが、ここでは神様そのものとして崇められているのですね。

 

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早春の花々を見に行かれる季節に間に合うよう、昨年の様子を記しました(2019年3月30日)。遅咲きのベニシダレ桜が満開になる頃が圧巻のようですが、桜が終わるとサツキやツツジが咲き誇るそうです。さきほどアップした春告げ花「サンシュ」は秋になると真っ赤な実をつけるようですし、燃えるような紅葉も楽しみです。

 

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最後まで花が見送ってくれました。

 

 

参考文献:

正法寺のパンフレットおよびHP: http://www.kyoto-shoboji.com/index1.htm

京都府歴史遺産研究会編『京都府の歴史散歩(上)』(山川出版社, 2014)

 

 

【大徳寺 龍源院・瑞峯院】個性豊かな石庭の美

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龍源院 一枝坦

 

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瑞峯院 「独坐庭」 文字通り「独坐」できました

 

臨済宗の大寺院、大徳寺には多くの塔頭がありますが、ほとんどが通常非公開です。その中にあって、通年公開しているのは4つのみ。北派の本庵「大仙院」と南派の本庵「龍源院」、塔頭の「高桐院」と「瑞峯院」です。

 

龍源院瑞峯院の石庭は個性派ぞろい。

早春なのにしぐれる日が多いこの頃、抜けるような青空に「今日だ!」と思い立ち、訪れました。

新型コロナウィルスの影響で、ほぼ独占状態。写真もご自由にと言ってくださいました。

端正な石庭を眺めながら過ごす、静けさと陽光に包まれた贅沢な時間の始まりです。

 

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大徳寺山門(金毛閣)

朱色の大徳寺山門(金毛閣)。千利休が出資して完成したので、楼上に利休の木像が掲げられました。それを咎めた秀吉により利休が切腹に追い込まれた事件はよく知られています。

 

龍源院(りょうげんいん)大徳寺山門の目の前にあります。

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龍源院表門

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龍源院は「洛北の苔寺」と言われる

受付入ってすぐの書院軒先の「滹沱底」(こだてい)

左右の石がセットで「阿吽の石庭」。

京都検定の受験者泣かせは名称の難しさです。

臨済宗の宗祖、臨済禅師の出身地である中国河北省の滹沱河から銘があるそうです。

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方丈へと入ります。方丈とは禅宗寺院の正殿(和尚の住居)のことです。

方丈庭園に腰を下ろす前に「真前」(真ん中の部屋の仏壇)にお参りするのがマナーです。

 

まず南側の広々とした「一枝坦」(いっしだん)から。

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まあるい苔山は「亀島」。白砂は大海原を表しています。右手奥に見えるのが、仙人の住む不老長寿の島「蓬莱山」。

 

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手前にあるのが「鶴島」ですが…

どれが何を表しているかは、知らなくてもよいと思います。全く別のとらえ方をしても良いのでは…? 白砂が大宇宙で、石が惑星とか。まあるい太陽から光線が放たれているとか。

 

「一枝坦」の「坦」の文字は、「ひろい、おおきい、やすらか」を表します。視界に入ったとたんに受けた印象そのものです。「一枝」は、この龍源院を開いた東溪宗牧(とうけいそうぼく)禅師の室号「一枝之軒」から銘されました。

 

伸びやかな「陽」の雰囲気の南庭に対し、方丈北側の「龍吟庭」は固い「陰」のイメージです。「洛北の苔寺」にふさわしく、本来なら青々とした苔が大海原を表しているそうです。

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龍吟庭 杉苔が青々と茂るときにも訪れたい

室町時代の相阿弥の作と伝わります。中央に突出している岩は「須弥山」を表しています。

「この世界は九つの山、八つの海から成っていて、その中心が須弥山」(パンフレットより)で、「魏々としてそびえたち、人間はもちろん、鳥も飛び交うことのできない悟りの極致を形容している」(同)とのこと。

 

最後に、龍源院の中で一番興味があった「東滴壺」(とうてきこ)へ。写真集で見て、コンパクトながら素敵な庭だなあと惹かれていました。                                                       

 

自分で撮ると、なんだか…すみません。ぜひ直接行ってみてください。

我が国で最も小さな、格調高い石庭として有名です。

大河の一滴。最初のポチャリ、をイメージしたものです。                                  

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次に訪ねたのはキリシタン大名として有名な大友宗麟が創建した瑞峯院(ずいほういん)です。大友宗麟は22歳で禅宗僧として得度を受けていました。宗麟の戒名「瑞峯院殿瑞峯宗麟居士」が寺号の由来です。

 

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右手が瑞峯院表門。 奥に見えるのは大慈院(宗麟の姉が創建)で 精進鉄鉢料理の店がある。

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受付からすぐ、井戸を背に綺麗な椿。 

 ピンクの椿を愛でた直後、眼前に広がったのは…

 

 

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大海原そのもの。写真では分かりませんが、キラキラと光る石粒(雲母でしょうか)が無数にあって、陽光に輝く海面のようです。方丈の前庭「独坐庭」です。

 

時刻は正午。誰一人いません。文字通り「独坐」状態で瞑想しました。頭上に太陽が来ていたこともあり、しばらくして‟暑いな…”と思った瞬間、正面からぴゅ~っと爽やかな風が吹いてきました。身体全体がふわりと浮上するような心地よさでした。

 

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石組は蓬莱山(前述)で、大海の荒波が打ち寄せる中、悠々と独坐している様子を表しています。とにかくダイナミックです。昭和を代表する作庭家、重森三玲が作りました。京都には三玲の庭が各所にありますが、どれをとっても造形が大胆で魅力的です。

 

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蓬莱山のその先は、入り江になっていて、茶室に続いています。

橋もかかっていて、本当に水が流れているようです。

 

 

去り難い独坐庭でしたが、もう一つの有名な石庭、方丈裏の「閑眠庭」へ。

こちらも重森三玲の作庭です。

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‟閑眠高臥して青山に対す“の禅語から命じられたそうです。石の配置が十字架を表しているそうですが、私にはどうしても分かりませんでした。(この写真の反対側から見るように案内がありましたが、さっぱりでした…)

 

22歳で得度していた大友宗麟でしたが、晩年にはキリスト教を保護し、フランシスコ・ザビエルについて洗礼を受けたことから十字架がデザインされたとのことです。

 

帰り際、今度は白い椿が見送ってくれました。

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私たちの強さを試すような出来事が連続して起こる世の中。

湧き上がってくる不安を鎮め、心を整えるために、草木も花も岩石も風も太陽も傍にいてくれます。

 

 

参考文献:

龍源院、瑞峯院のパンフレット

京都府歴史遺産研究会編『京都府の歴史散歩(上)』(山川出版社, 2014)

                                                                         

 

【京都検定未出題】中高年で転身したスゴイ人たち その2

奉行所の与力からジャーナリストに転身した神沢杜口(かんざわとこう)

f:id:travelertoearth:20200302193657p:plain今回ご紹介したいのは、病弱だった前半生から一転、80歳を過ぎても健脚を誇った江戸時代の俳人・随筆家の神沢杜口です。

 

森鷗外も触発された『翁草』

神沢杜口―諡(おくりな)は貞幹(ていかん)―は、これまで京都検定に出題されたことはありません。それどころか歴史の教科書にも出てこなかった人物です。

森鷗外を知らないという人はいないと思いますが、かの有名な高瀬舟は、神沢杜口が著した『翁草』(おきなぐさ)から着想を得ているのです。同じく鷗外の歴史小説『興津弥五右衛門の遺書』も『翁草』に載っているエピソードを基にしています。

 

『翁草』は全200巻(!) に及ぶ随筆集です。単なる随想ではなく、歴史・地理・有職故実などを網羅する、百科事典と言ってもよいほどのクォリティ。杜口は入念な取材に基づいて知り得たことを惜しみなく発信する、さしずめ現代なら、人気ブロガーといえるでしょう。

 

人柄を垣間見せるネーミング

奉行所の与力を務める神沢家に養子として入ったので、名字は神沢。俳諧にも造詣が深く、「杜口」はその俳号です。「杜」の字義は「とじる、ふさぐ」ですから杜口は「口をとじる」、つまり寡黙を意味します。

ここからは推測ですが…

もともと病弱であった彼は貝原益軒の『養生訓』を参考にしていました。その貝原益軒の言葉の中に、「無用の言葉を省きなさい。言語を慎むことが、徳を養い、身を養う道である」というのがありました。その教えのとおり、口を慎み、五・七・五の調べに思いを込めたのではないでしょうか。

 

そして随筆集のタイトルとなった翁草とは…。どのような思いでこのタイトルをつけたのでしょう。

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オキナグサは本州、四国、九州の日当たりのよい草原や林縁に生える多年草です。花後にできるタネに白く長い毛があり、そのタネが密集して風にそよぐ姿を老人の白髪に見立てて「オキナグサ(翁草)」と呼ばれているといわれます。

『みんなの趣味の園芸』より

https://www.shuminoengei.jp/m-pc/a-page_p_detail/target_plant_code-1009

 

『翁草』の前半100巻を完成させたのが62歳のときですから、杜口は自らを白い綿毛をつけた痩果になぞらえたのでしょうか。この白い綿毛が風にのってふわふわと飛んでいく軽やかさが、京都で18回も棲家を変えた、彼の執着のない生き方を象徴しているように思えます。

 

また、鎌倉時代を代表する随筆『徒然草』(つれづれなるままに書きつけたもの)から分かるように「草」は原稿、草稿を表わします。4世紀も前に書かれた、知識と美意識にあふれる名随筆にあやかり、翁草と命名したのかもしれません。想像が膨らみます。

 

驚きの経歴

~神沢杜口 江戸中期(1710-1795) 略歴~

京都東町奉行所の与力(約20年間努める)

40歳の時、病弱を理由に辞職。文筆家になる。

62歳、随筆『翁草』100巻完成

78歳、天明の大火で『翁草』の追加原稿100巻焼失!

もう一度取材をやり直し、大火のルポも兼ねて書き直す。

79歳、マラリアに罹るも回復

80歳を過ぎても各地を取材旅行

82歳 焼失していた原稿100巻を再度完成させる

85歳 天寿を全う 

 

京都で生まれた彼(通称、与兵衛)は、早くも1719年(9歳くらい)に俳諧と出会います。与力をしていた神沢家の養子となり、後に養父の娘と結婚して、与力を継ぎました。この時代の「与力」は、奉行所の配下で、部下として「同心」をもっていました。同心はいわば警察官ですから、与力は警察署長クラスの管理職といえます。

 

歌舞伎『白波五人男』の一人のモデルとなった実在の盗賊、日本左衛門。その手下である中村左膳を江戸に送還する際、二人してほろりと涙をこぼしたというエピソードが残っています。天下の悪人と心を通わせた杜口には、四角四面の役人ではない人情味を感じます。この後、杜口は目付に出世します。

 

公務員として出世した杜口(換算すると年棒1千万円以上)ですが、40歳のとき、病弱を理由に辞職します。安定した地位を捨て、俳諧に遊ぶと共に、文筆業に専念することにしたのです。

 

44歳で妻に先立たれますが、生涯独身を通し、18回も京都市中を転居しながら、取材活動を行なっていたようです。精魂込めて情報収集し、綿密な原稿を書きため、還暦に近づいた頃から『翁草』として順次発表しました。他の著作物リストを見ても、60歳を過ぎてからのものばかりです。

 

『翁草』100巻を発表した後、さらに100巻を書き上げたところで、1788年の天明の大火。苦労の結晶である原稿すべてが灰燼に帰したのです。天明の大火は皇居をも焼き尽くし、焼失家屋18万余に達する大災害でした。このとき杜口、78歳。

 

普通ならここで精神的に折れてしまい、肉体的にも弱っていくところです。しかし杜口は違いました。娘からの同居の勧めにも応じず、一人暮らしを続けます。そして、大火の被害の実地調査を綿密に行ない、いわば被災地ルポルタージュを加えて、82歳で100巻の書き直しを完了したのです。随筆家というより、半端ではないジャーナリスト魂をほうふつとさせます。

 

そこに至るまでに驚愕の事実があります。79歳のときマラリアに罹患したのです。危篤となり、病床に親族が集まったのですが、奇跡的に回復したのです。その後80歳を過ぎてなお、1日に20~28kmも歩いて取材していたというのですから、驚きです。いつ倒れてもよいように、迷子札を付けて旅に出ていたとか。

 

40歳までは病弱だった杜口なのに、これほど充実した体力・気力を備えたのには秘訣がありそうです。

 

杜口の人生哲学 

杜口の言葉の中に、現代の私たちが学ぶべき人生哲学が込められています。

「遠きが花の香(かおり)」

杜口には5人の子がありましたが、4人は死亡し末娘だけが生き残りました。この末娘に婿養子を迎え、孫が生まれても、杜口は一人暮らしを貫きました。同居を断る心境を表わす言葉です。密接になり過ぎて互いを疎ましく思うよりも、たまに会う方が、嬉しい気持ちになれるということでしょう。ときどき、風にのってふわりと花の香りが漂ってきたときのように。共依存しない、ゆるやかな関係こそ幸せだと教えてくれます。

 

「仮の世の仮の身には 仮のすみかこそよかれ」

高収入で安定していた公務員の職を辞して、文筆に人生をかけた後半生。

いわゆる年金のような収入があったとはいえ、報酬の期待できない世界に身ひとつで飛び込み、京都市中で18回も引っ越した杜口。「その心は?」と問われたときの言葉でしょうか。

広い土地に大きな屋敷を建てて「根を下ろした」ところで、所詮、限りある人生。執着を捨てることで、自由に軽やかに生きることができたのでしょう。この言葉を読んだとき、世阿弥の「住するところなきを、まづ花と知るべし」(『風姿花伝』 第七)を思い出しました。仕事であれ住居であれ、一つの場所に安住しないことが大事だという言葉は、「仮のすみか」しかない者に勇気と希望を与えてくれます。

 

「我独り、心すずしく楽しみ暮らすゆえに、気滞らず。気滞らねば百病発せず」

杜口は貝原益軒の『養生訓』に従い、実践した人です。その結果、貝原益軒の言葉「短命ならんと思う人、かえって長生きする」を地で行っています。それには「気」を滞らせないことが大切だというのです。まさに「病は気から」です。

杜口は俳諧の他、謡曲、碁、香道も嗜みました。ジャーナリストとしての彼には鬼気迫るものを感じますが、それだけではなく、好きなものを楽しむ心の余裕があったということです。「心すずしく楽しみ暮らす」…素敵な言葉ですね。

 

「辞世とはすなわち迷ひ ただ死なん」

辞世を遺さない、という辞世を用意していたところにクスッと笑ってしまいます。

歩いて、書いて、また歩き…の人生。後世に名を残そうという欲とは無縁のようです。バランスをとるかのように、余技を楽しみながら軽やかに人生を味わい尽くし、穏やかに大往生したのでした。翁草の白い綿毛がふわりと風に乗っていくように。

杜口の墓は、慈眼寺(出水通七本松東入ル)にあります。

 

主な参考文献:

立川昭二『足るを知る生き方』(講談社, 2003)

帯津良一『長生きできる? 江戸時代の常識にとらわれない生き方』(AERA.dot., 2019.1.25)

 

【鞍馬寺】歴史編:宇宙人×古神道×密教×浄土信仰

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積雪で鼻が折れた先代に代わり、令和元年に新設された天狗

鞍馬寺の魅力は、雰囲気を直接体感するだけで充分かもしれませんが、その歴史を知ることで、さらに魅力が深まります。神仏と通じた人々の営みによって積み重ねられた歴史を辿ることも、ワクワクする体験の一つだと思います。

 

前回は深山幽谷の神聖な空気を味わった「体感編」でした。今回は「歴史編」として、鞍馬寺が霊地として現在も信仰を集める由縁を紹介します。

 

~目次~

1.有史以前:魔王尊降臨

2奈良時代毘沙門天現わる

3平安時代初期:千手観音を祀る

4. 鞍馬山にやってきたスーパースターたち

5.変遷を経て鞍馬弘教

6. 歴史を映し出す祭

 

1.有史以前:魔王尊降臨

さまざまな変遷を経た鞍馬寺。最初の出来事は、護法魔王尊の登場です。

登場のしかたがスゴイです。『鞍馬山小史』から、抜粋します。

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「六百五十万年前の出来事といいますから、人類発生に先立つこと百五十万年以上ということになります。

そのとき、天も地もすさまじい音をたて、無数の火の粉がぱらぱらと降ってきました。中天には巨大な焔のかたまりが炎々と燃えさかりながら渦を巻いています。その中心から、透きとおる白熱の物体が回転しながら舞い降りてきました。〈中略〉 宇宙の大霊である魔王尊が、このとき金星から地球の霊王として鞍馬山上に天下ったのでした」(『鞍馬山小史』 p5)

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「魔王尊と書きますと、悪魔の首領のように誤解されかねませんが、実は、あらゆる魔障を征服し屈従させて善魔に転向させる大王だから、魔王尊と申し上げるのです。つまり、破邪顕正のお力を授けてくださる守護神と思っていただければよいでしょう」(同 p9)

 

近年、疲弊した地球のアセンション(次元上昇)を導く存在として注目される「サナート・クマラ」は、この魔王尊だと言われています。サナート・クマラからのメッセージを伝える『アルクトゥルス人より地球人へ』にも、鞍馬寺への降臨が記されています。彼曰く、六百五十万年前ではなく、一千万年前のことだそうです。

 

「そのころの地球は地質学的な激動の陣痛をくぐり抜け、ようやく一部の地域が安定してきたところでした。私はその様子をしばらく見守ってから、この初々しい惑星に降り立ってみることにしました。そこで母船よりもずっと小型の着陸船を、あなたがたがいま日本と呼んでいる土地の鞍馬山の上に据え付けました。私が降り立ち、飛び立ったその地点に、今では小さなお堂が建っています」 (p65)

 

この小堂こそ、前回のブログでも紹介した「奥の院魔王殿」です。

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二億六千年前の海底が隆起した石灰岩の上に建つ魔王殿。ここに魔王尊=サナート・クマラが降り立った。

サナート・クマラが乗ってきた着陸船を象ったオブジェもありました。「本殿金堂」のすぐ脇、奥の院への入口に建つ「金剛寿命院」の庭にある立て砂がそうです。銀閣寺の「向月台」とそっくり同じ形をしています。(銀閣寺の向月台はこの伝説とは無関係のようです)

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魔王尊=サナート・クマラが乗ってきた宇宙船を模した立て砂(金剛寿命院の瑞風庭)

この「金剛寿命院」は、鞍馬弘教の本坊にあたります。鞍馬弘教は、三身一体の尊天(毘沙門天・千手観音・護法魔王尊)を本尊としています。

地球と人類の進化を促すため、宇宙のかなたからやってきて、地球の霊王となった魔王尊。5月の満月の宵には、天界と地上との間に通路が開けるので、この宵を期して魔王尊を仰ぐ祭典が行なわれています。

(☞ 6.「五月満月祭」に関連)

 

2奈良時代毘沙門天現わる

寺院の開基は鑑禎(がんちょう)上人、創建は770年。平安遷都の24年前のことです。

唐から苦難の末に平城京にやってきた鑑真和上をご存知でしょう。鑑禎さんは、あの鑑真和上にお伴して来日した高弟の一人です。最年少(二十余歳)だったそうです。言葉の不自由な異国で、鑑真に仕えながら、唐招提寺で伝教していました。

 

鑑真没後7年目、鑑禎は夢の中で「山背国(のちに山城国と表記)北方に霊地あり」というお告げを得て、鞍馬山に入ります。その夜、山中で鬼に襲われますが、倒れた朽木が鬼を押しつぶし救われました。

 

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翌朝、その場所に毘沙門天像を見つけます。鑑禎は「仏法護持の像が降臨された」と喜んで草庵を結び、その像を安置しました。

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毘沙門天霊夢に現われたのが、正月(寅の月)の寅の日の寅の刻だったことに因み、現在も盛大な祭が行なわれています。

(☞ 6.「初寅大祭」に関連)

 

この開創説話は、『鞍馬蓋寺縁起(あんばがいじえんぎ)』だけに書かれていて、他所には見当たらないそうです。では、他の書物ではどのように鞍馬寺開創は語られているのでしょうか? それが次に挙げる平安時代の出来事です。

 

3平安時代初期:千手観音を祀る 

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平安遷都に伴い、東寺の建設責任者「造東寺長官」となった藤原伊勢人(ふじわらのいせんど)という人がいました。東寺は正式名「教王護国寺」から分かるように、官寺です。自らが信仰する観音菩薩を祀る私寺を建てたいと願っていると、夢に現れた貴船明神によって、霊山に伽藍を建てるよう告げられます。

 

道も分からない伊勢人は白い愛馬に鞍をかけ、霊山に導くよう頼みました。「鞍」を置いた「馬」が導いたので、後に鞍馬山と呼ばれるようになったのです。

(☞ 6.「花供養」に関連)

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辿り着いた場所には、前述の毘沙門天がすでに祀られています。とまどった伊勢人でしたが、「毘沙門天も観音も同体」と夢で童子に諭されます。そこでお堂を建て、毘沙門天と共に千手観音を祀りました。8世紀末、796年のことです。

 

説話集『今昔物語』や歴史書扶桑略記』では、この経緯をもって鞍馬寺創建としています。

(ちなみに「扶桑」とは日本の異称)

 

鞍馬寺には国宝の毘沙門天があります(霊宝殿*に安置)。左手を額にかざして、国を見守っている独特の姿です。1126年の火災で焼失した直後の再興像と伝わりますが、もっと古い可能性もあるそうです。なんと胎内に聖観音銅像が納められているそうです。毘沙門天も観音も同体」という創建時のお告げを再現したのですね。

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通称「鎮護国家毘沙門天

  

*注:霊宝殿は冬期閉鎖。現在この毘沙門天奈良国立博物館に出張中(2020年3月22日まで特別展にて会えます)。

*追記:奈良国立博物館は新型コロナ肺炎の影響で3月15日まで臨時休館中。16日以降についてもHPなどで確認してください。

 

 

千手観音が祀られてから約百年後の9世紀末、東寺の僧だった峯延(ぶえん)がやってきて伽藍を整えたので、真言密教色が強くなりました。

この峯延上人が護摩の秘法をおこなっていたとき、雄の大蛇に呑まれそうになります。

 

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しかし上人が尊天の真言(呪文)を唱えると、大蛇は呪縛されて動かなくなりました。つがいの雌の大蛇もいたのですが、鞍馬山の水を絶やさないことを約束させ、逃がしてやりました。

話を聞いた寺の管理人(前述の藤原伊勢人の孫)のもと、雄の大蛇は切り刻まれ、静原山へ捨てられました。雌の方は「閼伽井護法善神」として本殿金堂の東側に祀られました。現在も「閼伽井護法神社」として残っています。

(☞ 6.「竹伐り会式」に関連。この説話が見事に反映された祭で驚きます)

 

4. 鞍馬山にやってきたスーパースターたち

比叡山延暦寺の開祖、最澄が唐に渡る前に、参籠したと伝わります。最澄が刻んだ不動明王が、僧正ガ谷不動堂に安置されています。前回書きましたが、この辺りは霊気がみなぎっていました。

 

◆峯延上人の大蛇退治で有名になってからは、さまざまな人たちが参詣しました。

白河上皇をはじめ多くの貴人、清少納言菅原孝標の娘(『枕草子』や『更級日記』に描写)、念仏を庶民に広めた空也、さらに融通念仏に発展させた良忍(エピソード後述)などなど。

信仰の対象というだけでなく、修行の場であり、宗教的インスピレーションを得る霊場だったことが分かります。

 

毘沙門天を祀る鞍馬寺は、武運長久を願う武士たちの信仰も集めました。

なんと初代征夷大将軍坂上田村麻呂が奉納した剣や鐙(あぶみ)が寺宝として遺されています。

そして牛若丸。火災で残欠しかありませんが、義経となって着用した甲冑や太刀も鞍馬寺に現存しています。

室町時代には歴代の足利将軍が(どうやら武運を頼むというより、応仁の乱や戦国時代の動乱と荒廃を逃れた、という感じで)滞在しています。

戦国時代の武田信玄は、「虎の巻の法」による戦勝祈願へのお礼状を送っています。また、豊臣秀吉・秀頼親子、徳川家康らも信仰を寄せていたようです。

 

江戸時代に入り平和な世の中になったので、武運長久の願掛けは影をひそめましたが、一般大衆からの信仰は盛んになりました。それが脈々と今日まで続いているのです。

 

5.変遷を経て鞍馬弘教

初期の鞍馬寺真言密教が強かったのですが、牛若丸がやってくる少し前、1135~1140年頃には天台宗として定まりました(天台宗にも「台密」といって密教の系統があります)。

しかし密教一辺倒ではありませんでした。森羅万象の神々を敬う古神道の要素も残しつつ、浄土信仰(念仏によって来世の幸福を願う)も融合させていきました。

 

ここでご紹介したいのが、融通念仏の祖、良忍上人です。平安時代の後期、大原の来迎院(天台宗)で念仏三昧の生活を送っていました。「融通」という言葉から分かるように、融通念仏とは、一人で念仏を唱えるよりも、大勢で唱えて「互いに徳を融通し合う」ことを提唱します。ご利益がその人数分倍増するからです。

 

良忍さんは、念仏を唱和した証として「名帳」に名を記すことも説いて回りました。これに賛同した鳥羽上皇をはじめ公家や庶民も署名をしました。ある日の早朝、青衣の僧がやってきて署名をしたかと思うと、さっと姿を消したのです。誰だと思いますか…???

 

不思議に思った上人が名帳を開いてみると、「念仏を百遍きかせてもらった鞍馬寺毘沙門天王が、念仏の結縁者たちを守護するためにやって来た」と書かれていたのです。驚いた上人は1125年4月4日、鞍馬寺に参籠し、通夜念仏を唱えます。そして「寅の刻」(午前3時)になると、毘沙門天が現われ、「お前は人間だから人間界を勧進して歩け。わしは天上界を引き受ける」といって「神名帳」を渡してくれました。

 

このエピソードに因み、毎年4月4日の夕べに「融通念仏会」が行なわれています。そして神名帳の縮刷版が、今もお守りとして授与されているそうです。

 

 

最後にもう一人。良忍上人とほぼ同世代の、重怡(じゅうい)上人です。阿弥陀如来の名を唱え続ける念仏を参詣の人々と共に行なった人です。

 

前回のブログに書いたように、山内には様々なお堂が建っています。本殿金堂に向かう途中にあったのが「転法輪堂」でした。由来がよく分からずスルーしてしまいました。調べてみると、ここには丈六(一丈六尺、約4.8m。坐像なのでその半分)の阿弥陀如来が祀られていると分かりました。重怡上人が祈願した仏像です。

 

重怡さんは、阿弥陀信仰だけではなく、弥勒菩薩も信仰していました。末法思想が広がった平安後期、56億7千万年後に弥勒菩薩が救いに来てくれるまで経典を書き残しておこう、と写経会を始めたのです。

 

多くの人々が重怡さんの元に集まり、写経を行ないました。

写経された法華経を筒に入れて埋納した場所を経塚と呼びます。鞍馬山には無数の経塚が残っています。

 

本殿拡張工事の際見つかった300点以上の経塚遺物は全て国宝に指定されています。その中に、重怡上人の名が刻まれた銅経筒もあります。

(☞ 6.「如法写経会」に関連)

 

時は流れて…

昭和22年に立教開宗された鞍馬弘教は、三身一体の尊天を本尊とし、宗教や国境や人種の垣根を超えて平和を祈り、進化と向上を願うことを理念としています。

そのモットーは、「月のように美しく、太陽のように暖かく、大地のように力強く」。

 

太古より山岳修験者が過ごした霊地鞍馬山。様々な歴史をすべて取り込んだうえで、最も原始的な信仰に収斂しているように思われます。

 

6. 歴史を映し出す祭

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「初寅大祭」 通称「鞍馬の初寅」 

毘沙門天から福運を授かる

とき:1月最初の寅の日  ところ:本殿金堂

正月(寅の月)の寅の日の寅の刻に毘沙門天が現われたことに因む祭です。厄災を落とし、毘沙門天から福運を授かるため、多くの参詣者が集まります。現在の様子を『鞍馬寺小史』から要約すると…

 

参詣者は前夜から山に登り、本殿金堂を参拝して「その時」を待つ。

午前3時(寅の刻)、ドラの音を合図に大祭が始まる。人々が真言を唱和する中、聖火が点じられる。燃えさかる炎とともに祈りが最高潮に。

 

故事に倣い、極寒のさなか、午前3時に毘沙門天に会わんとする人たちが大勢いることに驚きます。

雪が降る日だと、一心に祈る人の髪からまるで髪飾りのようにつららが下がるとか…。

祈りの祭典が終わるころ、夜が明け、続々と初寅詣りの人々が訪れ、夕刻まで賑わいが続くそうです。

 

魔除け「あうんの虎」開運招福「お宝札」などが授与されます。

 

 

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「花供養」 

自然に感謝し、本尊の活力を頂く

とき:4月第一日曜から2週間  ところ:境内

鞍馬山に咲く桜は「雲珠(うず)桜」といいます。桜の品種名ではありません。「雲珠」とは平安時代の金銅製の装飾馬具で、火炎の中に宝珠が描かれています。鞍の装飾金具である雲珠と地名の鞍馬との縁で、山を彩る桜を総称してこのように呼ばれています。

 

「雲珠桜」という言葉は、枕詞のように「鞍馬の山」を冠します。

以下は謡曲鞍馬天狗』の一節。

 花咲かば告げむと言ひし 山里の使いは来たり 馬に鞍、鞍馬の山の雲珠桜…

素敵な響きですね。

 

江戸時代には雲珠桜の美しさが有名になり、桜の枝を折ることが禁じられました。現在では桜をはじめとする樹木、竹、岩石などの採取が一切禁じられています。この祭が「自然への感謝」を謳っているように、鞍馬山では自然保護の精神が貫かれてきました。だからこそ、前回のブログで紹介した「極相林」や三畳紀ジュラ紀の岩石を見ることができるのですね。山全体が「自然科学博物苑」とされています。

 

うららかな4月、祭の期間には生け花・茶事・筝曲・謡曲・舞踊などが奉納されます。とくに中日の法要として催される「花会式」では、本尊である尊天(毘沙門天・千手観音・護法魔王尊)に花や茶を献じるため、本坊(金剛寿命院)から本殿金堂まで華やかなお練りの行列が渡ります。自然に感謝するとともに本尊の活力を頂く祭です。

 

 

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「五月満月祭(ウエサク祭)」 

尊天に自己の目覚めと万物の調和を祈念する

とき:5月の満月の夜  ところ:本殿金堂前庭

秘密の儀式だったものが、昭和29年から一般公開されました。ヒマラヤ山中で5月の満月に修するウエサク祭とも通じるようです。また、東南アジアでも、釈迦の降誕日・悟りを開いた日・入滅日すべてをインド歴2月の満月とする祭(ウェーサカ)が行なわれていますので、それにも関連しているのでしょう。

 

ミステリアスな祭です。近年、地球のアセンション(次元上昇)が注目されているので、このような祭典に違和感を持たない人も増えていると思います。これが戦後すぐに始まっていたことに驚きます。

 

この日、天界からひときわ強いエネルギーが注ぎ込まれるといいます。満月の下、本殿金堂前に参列者が灯火を掲げて集まります。浄化のための「地鏡浄業」、励みの瞑想「月華精進」、目覚めの「暁天明覚」という3部構成で進行します。それぞれが、魔王尊(地球の霊王)、千手観音(月の精霊)、毘沙門天(太陽の精霊)に対応した祈りなのでしょう。夜7時に始まり、なんと未明まで続くそうです。

 

ひとりひとりが、本来もっている清らかな魂を甦らせることにより、すべてが調和し平和がかなう ― 世界平和のために何かスゴイことをするとか、自己を犠牲にして奔走するとか、そういうことではないのですよ、と教えてくれているような気がします。

 

 

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「竹伐り会式」  

京都の夏の風物詩。大蛇に見立てた悪を切り捨て、水に感謝。

とき:6月20日14:00 ~ 15:30  ところ:本殿金堂

中興の祖とされる峯延上人の大蛇退治(☝3で紹介)にもとづく古式ゆかしい豪快な儀式です。

 

長さ4mほどの太い青竹雄蛇に見立て、僧兵姿の伐り役・回し役が二人一組となり、山刀で6分割します。(舞楽や読経も行なわれるので、クライマックスの竹伐りは15:00~15:10)

大蛇が分割されて静原に埋められた故事がモチーフとなっています。

 

江戸時代からは「丹波座」「近江座」という2チームに分かれ、伐る速度を競うようになりました。

 

「勝利した側の土地が豊作になる」といわれるので、迫力十分です。飛び散った木っ端は魔除けになるそうで、参拝者が競って拾い、お守りにするそうです。

 

一方、細い青竹雌蛇に見立てて用意されています。こちらは根がついたまま置かれていて、儀式終了後に山内に植え戻されるのです。「鞍馬山の水を守護します」と誓って逃がされ、閼伽井護法善神として祀られたあの雌蛇を表わしているのです。

 

この会式は、「悪」を打ち砕き、「善」を育てる祈りを込め、水に感謝する儀式といわれています。

        

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『都名所図会』巻六に描かれた「鞍馬の竹伐」 (国立国会図書館デジタルコレクション)

 

 

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「如法写経会」          

連続三日間の写経三昧

とき:8月1~3日  ところ:寝殿(前述「転法輪堂」の向かい)

参加者は7月31日から泊まり込み(!)、翌8月1日から3日まで、早朝5時起床、斎戒沐浴して写経に臨みます。

 

『般若心経』ではなく『法華経』を書写すること、動物性の膠(にかわ)を含む墨ではなく朱で書くところに特徴があるそうです。

 

3日目の結願の日、参加者全員が書いたものが巻物に仕立てられ、経筒に納めて埋納されます。

「お申し込みは鞍馬寺まで」とのことです。

 

 

参考文献:

鞍馬寺教務部編『鞍馬寺小史』(くらま山叢書, 2007三版)

トム・ケニオン&ジュディ・シオン『アルクトゥルス人より地球人へ』(ナチュラルスピリット, 2019)

国立国会図書館デジタルコレクション『鞍馬蓋寺縁起』 

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952823/57?tocOpened=1

国立国会図書館デジタルコレクション『都名所図会』

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555348?tocOpened=1

『鞍馬・貴船道』(集英社ウィークリー・コレクション16, 2009)

増田潔『京の古道を歩く』(光村推古書院, 2006)

            


 

 

 

【鞍馬寺】体感編:山の霊気を呼吸し、宇宙エネルギーを浴びる

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2月4日、立春。3月並みの穏やかな陽気に誘われ、鞍馬寺へ。国宝の仏像に会える霊宝殿は冬期閉鎖中ですが、(新型肺炎の影響もあり)観光客が極めて少ないこの時期、鬱蒼とした自然の「厳しさ」と「優しさ」の両方を肌で感じることができました。

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今回のブログでは、鞍馬~貴船に抜けるルートを歩いて実際に見たもの感じたものを紹介します。

(わずか2kmの行程ですが、アップダウンが結構きついのと、山の霊気や美しさにいちいち足を止めていたので、3時間かかりました)

 

 ~体感編:目次~

 1.山門~ケーブル山上駅~本殿金堂 

  ・弁財天社の水琴窟  

  ・本殿金堂と金剛床

 2.神秘の奥の院 

  ・息つぎの水  

  ・背比べ石  

  ・深海底だった地層 

  ・木の根道

  ・僧正ガ谷不動堂と義経堂  

  ・奥の院魔王殿

 3.魔王殿~西門(貴船川)

  ・極相林

  ・まとめ

 

1.仁王門(山門)~ケーブル山上駅~本殿金堂

叡電の終点「鞍馬」駅から参道を上り、山門へ。ご覧のように誰もいません。

御所の真北12kmにあたる鞍馬寺は、平安京の北方守護の寺院でした。四天王の北方守護神、毘沙門天を祀っています。寅の月の寅の日の寅の刻に降臨したことに因み、阿吽の虎が出迎えてくれます。

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仁王門(山門)へ

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毘沙門天の使い、阿吽の虎。吽形の虎がお茶目。

山門をくぐり、さらに階段を進むとケーブル乗り場です。

清少納言が『枕草子』で、「近うて遠きもの、鞍馬のつづらをり(九十九折り)といふ道」と挙げています。平安貴族の女性たちが急勾配の九十九折り道を上り下りしていた、と『更級日記』にもあります。

九十九折りは、山門から本殿金堂まで、曲がりくねった1,058mの道ですが、私はケーブル200m+徒歩456mのショートカットで。

 

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この先にケーブル乗り場

密教の法具、三鈷杵(さんこしょ)をご存知ですか?

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鞍馬山はちょうど三鈷杵の先の部分に似ているそうです。

本殿金堂のあるところが真ん中の尾根で、その両側に谷があり、さらに外側に尾根が走っているそうです。

ケーブル乗り場のある「普明殿」にジオラマがありました。

 

ケーブルを降りると多宝塔があり、そこからすでに深山幽谷の雰囲気を醸し出す道を進んでいきます。

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ケーブル山上駅「多宝塔」

◆弁財天社の水琴窟

途中、弥勒堂、転法輪堂などがありますが、ぜひ「巽の弁財天社」にお参りしてください。

小さなお堂ですが、そこに耳を寄せると、「水琴窟」の清らかな音が聞こえてきます。弁天さまが奏でる琵琶の音かと思うほど幻想的です。庭園や茶室にある水琴窟は竹の筒に耳を当てるものが多いですが、そのように仕組まれたものではなく、水滴が石をうち反響する自然の音だと思います。変な格好で張り付いている私をみた高齢のご夫婦に「なんですか?」と尋ねられました。そのご夫婦も長いこと聴き入っていられました。

 

本殿金堂と金剛床

鞍馬弘教総本山の「寺」とはいうものの、ここは宗派の垣根を越え、神道とも融合し、さらに森羅万象を司る「宇宙の大霊」を本尊としているスケールの大きな聖地です。中心道場は「本堂」ではなく「本殿金堂」といい、神社と寺院を合わせたような名称です。(真正面撮影は遠慮しました)

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このお堂の中で入手した『鞍馬寺小史』の最終ページに、このように書かれています。

鞍馬山の仁王門は常に万人に向けて開かれています。〈中略〉 口称念仏をしようと、お題目を唱えようと、祝詞をあげようと、はたまたアーメンと唱えようとご自由です」

 

宇宙の大霊は尊像として具現化され、本殿金堂の内々陣に祀られています。60年に一度、丙寅(ひのえとら)の年に開帳される秘仏です(前回は1986年なので、次は2046年)。

 毘沙門天太陽の精霊(光の象徴)…中央

 千手観音の精霊(慈愛の象徴)…向かって右

 護法魔王尊大地の霊王(活力の象徴)…向かって左

これら三尊を合わせて、三身一体(さんじんいったい)の「尊天」としています。

 

薄暗いお堂の中で一人瞑想する外国人の姿がありました。私にはお堂の奥の厨子の中に閉じこもっているご本尊のイメージは湧きませんでした。やはり自然の精霊を感じたくて、外に出ました。

 

本殿金堂の前庭に、六芒星のマークを象った敷石があります。金剛床です。おそらく(私の解釈ですが)三身一体の尊点を正三角形で表し、それが天から降りてくるのと、天に昇っていくのをシンボル化しているのではないでしょうか。

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六芒星の真ん中に立って、ちょうど頭上に輝く太陽の光を全身で浴びました。そして、本殿金堂を背中にして南を向くと、視界が大きく開けます。左手の比叡山をはじめ、ぐるりと山並みが続いています。しばらく瞑想していると、爽やかな風がさあ~っと通り過ぎ、遠くから梵鐘の音がゴ~ンと響いてきました。じんわり沁み込むような深い音色です。                            

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正面は龍ヶ岳(登山した方のブログを見ると、あちらからも鞍馬山が見えるそうです。当たり前か…)

 

2.神秘の奥の院

本殿金堂から864m先の魔王殿を目指します。

             

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なかなかの急階段を上り、以降、上りが続きます。途中、ジュラ紀の地層が露出しているところがありました。

ジュラ紀:2億1200万年前~1億4300万年前。恐竜が出現した頃 『広辞苑』より)

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息つぎの水    

俗にいう「鞍馬天狗」に兵法を習った牛若丸(のちの義経)。後述の僧正ガ谷が道場で、そこに向かう途中、ここで息つぎをしたそうです。今も枯れることなく清水が湧いています。

      

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背比べ石

7歳で鞍馬山に入り、この地を駆け巡った牛若丸。16歳で鞍馬山を後にし、義経と名乗ります。

名残を惜しんで背比べをしたという石。1.2mなので、幼かった自分と今の自分を比べたのかもしれませんね。

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深海底だった地層              

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この辺りから三畳紀の地層が見えてきます。説明板には「三畳紀前期、深海底に静かに堆積した」とあります。三畳紀は、前述のジュラ紀のひとつ前の区分です。『広辞苑』には、2億4700万年前以降で、アンモナイトが全盛期だったとあります。強烈な地殻変動が起こって、隆起したのですね。

 

 

木の根道

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背比べ石付近から次の僧正ガ谷にかけての一帯は、地盤が固く土壌層が薄いため、杉の根が地表に這っています。なるべく踏まないように、と注意書きがありましたので、立ち入らず写真だけにしました。

 

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道中ずっとついてきてくれた太陽。

ここではとくに神々しさが増して見えました。

 

僧正ガ谷不動堂と義経

この一帯は牛若丸が大天狗「僧正坊」に兵法を習った場所です。(ちなみに愛宕山も天狗で有名ですが、そちらは通称「太郎坊」) 不動堂には最澄が刻んだと伝わる不動明王が祀られています。

不動明王大日如来(宇宙の根源)の化身とされている仏です。

 

すぐそばに小さな祠があります。義経堂です。兄の頼朝に追われて奥州で敗死した義経の魂は、この懐かしい鞍馬山に帰ってきたと伝わります。鞍馬山では義経を「遮那王」として神格化し、ここに祀っています。遮那とは毘盧遮那(ビルシャナ。奈良の大仏がそうです)のことで、やはり宇宙の根源(=大日如来)の象徴です。

 

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僧正ガ谷の樹林

この写真を撮った後、驚くことがありました。風ひとつなかったのに、突如木々の梢がゆっさゆっさと揺れるほどの風が吹き始めました。「あ、天狗さんだ」と思ったとき、「ギギーッ、ギギーッ」と軋むような音が響いてきます。普通に木が揺れるだけでは聞いたこともないような、圧力が加わって大枝がたわんで擦れるような、そんな音です。響き渡る音を辿って見上げても、生き物の姿は見えません。「ギギーッ」は断続的に響いてきます。

少し怖くなって(人っこひとりいないので)、先に進むことにしました。すると、風も「ギギーッ」音もぴたりと止みました。あ~びっくりした、と独り言。

 

奥の院魔王殿

ここからは下り坂を進みます。そしてついに、魔王殿が見えてきました。

鞍馬寺で最重要の聖地です。ここに護法魔王尊が降臨したと伝わります。

 

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手前の拝殿から参拝

鞍馬山小史』から抜粋します。

奥の院魔王殿は、累々たる奇岩の上にあります。この岩が水成岩でサンゴやウミユリなどの化石を含んでいますので、二億六千万年前に南洋の海底にあったものが、永い年月をかけて北上し隆起したことがわかります。そしてこの一帯が実は磐座なのです」 (p9)

 

魔王尊は地球の霊王として、地球全体や人類、生類一切の進化を促すそうです。

「魔王尊のはっきりしたお姿は誰にもわかりません。太古に金星から降臨したまま、〈中略〉変幻自在さまざまなお姿を現すからです」 (p10)

 

本殿金堂に祀られる秘仏のお前立は、頭に兜巾を被った行者風のいでたちで、長い髭をはやしていますが、なんと背中に羽根がついています。変幻自在の姿のひとつが天狗なのでしょうか。

 

(余談ですが、鞍馬寺の天狗はヘブライ人だという説を聞いたことがあります。古代イスラエルには山岳信仰があり、それが日本に伝わったというのです。天狗は兜巾を被り、「虎の巻」を持つ姿で描かれることがありますが、ヘブライの修行者も兜巾と似たものを被り、「トーラースクロール」を持つというのです。ダジャレみたい。確かに、六芒星ダビデの星と同じです。もしかして、日本から古代イスラエルに伝わったのでは?)

 

3.魔王殿~西門(貴船川)  最後の下り坂573m

魔王殿には手前にある拝所(屋根付きで、椅子が並ぶ)からお参りします。写真で見えるように、魔王殿に張られた幕には天狗の団扇のようなマークがついています。しかし、これは菊の花びらを横からみたものだそうです。

「左きふねぐち」の道標に従い、ここから最後の下り坂573m。かなり急です。

 

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こんな道や

 

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こんな道を下りていきます

極相林

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周囲は「極相林」と呼ばれる一帯。説明板を要約するとこうなります👇

裸地 ➡ 草 ➡ 陽樹 ➡ 陽樹の下に陰樹 ➡ 陰樹が陽樹を追いやる ➡ 陰樹だけで安定

この期間200~310年

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鞍馬山で、ここが陰樹だけの極相林。カシ・サカキ・ツバキ(照葉樹)やツガ・モミ(針葉樹)があるそうです。

                     

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そうか、椿も陰樹として生き延びてきたのか…

たくましい樹木なのですね。

ひょっこりこちらを向いて咲いていました。

西日を受けて、きらきら。

 

昼食抜きで3時間、さすがに疲れてきたところで、まるで龍のような老木がありました。

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とぐろを巻いて、首をもたげています。

龍神さまみたいだと思った瞬間、貴船川のせせらぎがこだましてきました。

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やっと鞍馬寺の西門に到着です。門を出て赤い橋を渡ると、貴船街道です。下り坂が堪えて、膝がぷるぷる震えていました。それでも気分は上々で、その後さらに2km先の叡電貴船口」駅まで歩き、今日の旅を終えました。

 

そういえば、西門から魔王殿に上ってくる人も数人いました。若い人でも杖をつきながら、ハアハア息を切らしていました。健脚でなければ、今日私が辿った順路がお勧めです。

 

まとめ

今日のルート:1,893mf:id:travelertoearth:20200211175521p:plain

次回は、霊山あるいは聖地と呼ばれるにふさわしい、太古からのドラマチックな歴史を紹介します。