【京都検定】古都学び日和

癒しと気づきに溢れる古都の歴史散歩

【京都検定未出題】中高年で転身したスゴイ人たち その2

奉行所の与力からジャーナリストに転身した神沢杜口(かんざわとこう)

f:id:travelertoearth:20200302193657p:plain今回ご紹介したいのは、病弱だった前半生から一転、80歳を過ぎても健脚を誇った江戸時代の俳人・随筆家の神沢杜口です。

 

森鷗外も触発された『翁草』

神沢杜口―諡(おくりな)は貞幹(ていかん)―は、これまで京都検定に出題されたことはありません。それどころか歴史の教科書にも出てこなかった人物です。

森鷗外を知らないという人はいないと思いますが、かの有名な高瀬舟は、神沢杜口が著した『翁草』(おきなぐさ)から着想を得ているのです。同じく鷗外の歴史小説『興津弥五右衛門の遺書』も『翁草』に載っているエピソードを基にしています。

 

『翁草』は全200巻(!) に及ぶ随筆集です。単なる随想ではなく、歴史・地理・有職故実などを網羅する、百科事典と言ってもよいほどのクォリティ。杜口は入念な取材に基づいて知り得たことを惜しみなく発信する、さしずめ現代なら、人気ブロガーといえるでしょう。

 

人柄を垣間見せるネーミング

奉行所の与力を務める神沢家に養子として入ったので、名字は神沢。俳諧にも造詣が深く、「杜口」はその俳号です。「杜」の字義は「とじる、ふさぐ」ですから杜口は「口をとじる」、つまり寡黙を意味します。

ここからは推測ですが…

もともと病弱であった彼は貝原益軒の『養生訓』を参考にしていました。その貝原益軒の言葉の中に、「無用の言葉を省きなさい。言語を慎むことが、徳を養い、身を養う道である」というのがありました。その教えのとおり、口を慎み、五・七・五の調べに思いを込めたのではないでしょうか。

 

そして随筆集のタイトルとなった翁草とは…。どのような思いでこのタイトルをつけたのでしょう。

f:id:travelertoearth:20200302194056p:plain

オキナグサは本州、四国、九州の日当たりのよい草原や林縁に生える多年草です。花後にできるタネに白く長い毛があり、そのタネが密集して風にそよぐ姿を老人の白髪に見立てて「オキナグサ(翁草)」と呼ばれているといわれます。

『みんなの趣味の園芸』より

https://www.shuminoengei.jp/m-pc/a-page_p_detail/target_plant_code-1009

 

『翁草』の前半100巻を完成させたのが62歳のときですから、杜口は自らを白い綿毛をつけた痩果になぞらえたのでしょうか。この白い綿毛が風にのってふわふわと飛んでいく軽やかさが、京都で18回も棲家を変えた、彼の執着のない生き方を象徴しているように思えます。

 

また、鎌倉時代を代表する随筆『徒然草』(つれづれなるままに書きつけたもの)から分かるように「草」は原稿、草稿を表わします。4世紀も前に書かれた、知識と美意識にあふれる名随筆にあやかり、翁草と命名したのかもしれません。想像が膨らみます。

 

驚きの経歴

~神沢杜口 江戸中期(1710-1795) 略歴~

京都東町奉行所の与力(約20年間努める)

40歳の時、病弱を理由に辞職。文筆家になる。

62歳、随筆『翁草』100巻完成

78歳、天明の大火で『翁草』の追加原稿100巻焼失!

もう一度取材をやり直し、大火のルポも兼ねて書き直す。

79歳、マラリアに罹るも回復

80歳を過ぎても各地を取材旅行

82歳 焼失していた原稿100巻を再度完成させる

85歳 天寿を全う 

 

京都で生まれた彼(通称、与兵衛)は、早くも1719年(9歳くらい)に俳諧と出会います。与力をしていた神沢家の養子となり、後に養父の娘と結婚して、与力を継ぎました。この時代の「与力」は、奉行所の配下で、部下として「同心」をもっていました。同心はいわば警察官ですから、与力は警察署長クラスの管理職といえます。

 

歌舞伎『白波五人男』の一人のモデルとなった実在の盗賊、日本左衛門。その手下である中村左膳を江戸に送還する際、二人してほろりと涙をこぼしたというエピソードが残っています。天下の悪人と心を通わせた杜口には、四角四面の役人ではない人情味を感じます。この後、杜口は目付に出世します。

 

公務員として出世した杜口(換算すると年棒1千万円以上)ですが、40歳のとき、病弱を理由に辞職します。安定した地位を捨て、俳諧に遊ぶと共に、文筆業に専念することにしたのです。

 

44歳で妻に先立たれますが、生涯独身を通し、18回も京都市中を転居しながら、取材活動を行なっていたようです。精魂込めて情報収集し、綿密な原稿を書きため、還暦に近づいた頃から『翁草』として順次発表しました。他の著作物リストを見ても、60歳を過ぎてからのものばかりです。

 

『翁草』100巻を発表した後、さらに100巻を書き上げたところで、1788年の天明の大火。苦労の結晶である原稿すべてが灰燼に帰したのです。天明の大火は皇居をも焼き尽くし、焼失家屋18万余に達する大災害でした。このとき杜口、78歳。

 

普通ならここで精神的に折れてしまい、肉体的にも弱っていくところです。しかし杜口は違いました。娘からの同居の勧めにも応じず、一人暮らしを続けます。そして、大火の被害の実地調査を綿密に行ない、いわば被災地ルポルタージュを加えて、82歳で100巻の書き直しを完了したのです。随筆家というより、半端ではないジャーナリスト魂をほうふつとさせます。

 

そこに至るまでに驚愕の事実があります。79歳のときマラリアに罹患したのです。危篤となり、病床に親族が集まったのですが、奇跡的に回復したのです。その後80歳を過ぎてなお、1日に20~28kmも歩いて取材していたというのですから、驚きです。いつ倒れてもよいように、迷子札を付けて旅に出ていたとか。

 

40歳までは病弱だった杜口なのに、これほど充実した体力・気力を備えたのには秘訣がありそうです。

 

杜口の人生哲学 

杜口の言葉の中に、現代の私たちが学ぶべき人生哲学が込められています。

「遠きが花の香(かおり)」

杜口には5人の子がありましたが、4人は死亡し末娘だけが生き残りました。この末娘に婿養子を迎え、孫が生まれても、杜口は一人暮らしを貫きました。同居を断る心境を表わす言葉です。密接になり過ぎて互いを疎ましく思うよりも、たまに会う方が、嬉しい気持ちになれるということでしょう。ときどき、風にのってふわりと花の香りが漂ってきたときのように。共依存しない、ゆるやかな関係こそ幸せだと教えてくれます。

 

「仮の世の仮の身には 仮のすみかこそよかれ」

高収入で安定していた公務員の職を辞して、文筆に人生をかけた後半生。

いわゆる年金のような収入があったとはいえ、報酬の期待できない世界に身ひとつで飛び込み、京都市中で18回も引っ越した杜口。「その心は?」と問われたときの言葉でしょうか。

広い土地に大きな屋敷を建てて「根を下ろした」ところで、所詮、限りある人生。執着を捨てることで、自由に軽やかに生きることができたのでしょう。この言葉を読んだとき、世阿弥の「住するところなきを、まづ花と知るべし」(『風姿花伝』 第七)を思い出しました。仕事であれ住居であれ、一つの場所に安住しないことが大事だという言葉は、「仮のすみか」しかない者に勇気と希望を与えてくれます。

 

「我独り、心すずしく楽しみ暮らすゆえに、気滞らず。気滞らねば百病発せず」

杜口は貝原益軒の『養生訓』に従い、実践した人です。その結果、貝原益軒の言葉「短命ならんと思う人、かえって長生きする」を地で行っています。それには「気」を滞らせないことが大切だというのです。まさに「病は気から」です。

杜口は俳諧の他、謡曲、碁、香道も嗜みました。ジャーナリストとしての彼には鬼気迫るものを感じますが、それだけではなく、好きなものを楽しむ心の余裕があったということです。「心すずしく楽しみ暮らす」…素敵な言葉ですね。

 

「辞世とはすなわち迷ひ ただ死なん」

辞世を遺さない、という辞世を用意していたところにクスッと笑ってしまいます。

歩いて、書いて、また歩き…の人生。後世に名を残そうという欲とは無縁のようです。バランスをとるかのように、余技を楽しみながら軽やかに人生を味わい尽くし、穏やかに大往生したのでした。翁草の白い綿毛がふわりと風に乗っていくように。

杜口の墓は、慈眼寺(出水通七本松東入ル)にあります。

 

主な参考文献:

立川昭二『足るを知る生き方』(講談社, 2003)

帯津良一『長生きできる? 江戸時代の常識にとらわれない生き方』(AERA.dot., 2019.1.25)