【京都検定】古都学び日和

癒しと気づきに溢れる古都の歴史散歩

【鞍馬口 西林寺の木槿(もくげ)地蔵さん】

10月初旬、例年になくいつまでも瑞々しい木槿(ムクゲ)が咲き続ける西林寺を訪れました。何度目の訪問でやっとお会いできたご住職が話してくださった興味深い歴史を紹介します。

羽休山飛行院 西林寺(うきゅうさん ひこういん さいりんじ)

地下鉄烏丸線 鞍馬口駅から200mほど西に、西林寺天台宗)はあります。

書物で偶然目にした美しい「木槿(もくげ)地蔵尊の写真、そして「羽休山飛行院」というユニークな山号がずっと気になっていました。

ご本尊の木槿地蔵菩薩坐像 (木像) (ご住職が写真の転載を許可してくださいました)

木槿(ムクゲ)とは

木槿(ムクゲ)  一日でしぼむ「一日花」

それがしも 其の日暮らしぞ 花木槿(一茶)

地域では「もくげ地蔵さん」と呼ばれていますが、由来となった植物の方は「むくげ」と読みます。

一茶の句でも分かるように、木槿の花は一輪一輪が一日でしぼむ「一日花」。それゆえに、「一期一会」を尊ぶ茶道で好まれてきました。

朝開き夕方しぼむはかなさと裏腹に、6月~10月まで長期にわたり(とくに盛夏に)次々と花を咲かせることから、強さや繁栄の象徴として、韓国では国花としています。花・皮・種子は漢方薬として、若葉は食用としても活用されるほど、無駄のない植物だそうです。

私が訪ねたのも10月初旬ですが、まだまだ蕾がついていました。

 

ムクゲの草むらから現れたお地蔵さま

寺伝では、かの有名な「役行者がこの地で松の根元から放たれる瑞光を認めその地中から掘り出した石をもって地蔵像を刻んだ」とあるそうです。

時は流れ、平安初期の延暦年間(781-806)に慶俊(けいしゅん)僧都が、ムクゲの草むらからその地蔵尊を感得しました。桓武天皇から火防(火伏)の寺を建立するよう命じられていた慶俊は、この地蔵尊を本尊として、このお寺を創建しました

したがってお寺の開基は慶俊僧都ですが、もともとは飛鳥時代修験道の開祖、役行者ゆかりのお寺であることが分かりました。歴史の古さに驚くばかりです。

しかも、京都にある寺院はことごとく豊臣秀吉の都市計画で移転を余儀なくされましたが、西林寺は創建当時からこの場所にあるとのことです。

 

歴史の荒波にのまれて

このお寺から西へ進むと西陣烏丸通を隔てて東に行くと、上御霊神社があります。

上御霊神社といえば、応仁の乱の戦端が開かれた(当時は御霊の杜と呼ばれた)場所。西陣は、西軍の山名宗全が陣を置いたことに由来する地名です。

 

かつて広大な寺域を誇った西林寺でしたが、応仁の乱天明の大火、その後の権力者による寺仏没収などにより、堂宇を失ってしまいました。役行者が彫り、慶俊僧都が祀った石像のお地蔵さまも行方不明になったそうです。

お話を伺って初めて、権力者による寺仏没収があったと知りました。石のお地蔵さまは火災でも残りそうなのに…という疑問が解けました。

さらには廃仏毀釈の危機にも瀕しました。壮大な歴史に鑑み、お寺は存続されましたが、江戸末期(1845)建立の小堂を残すのみとなりました。

 

いろいろなサイトでは「洛陽四十八願所地蔵巡りの第十九番霊場」と書かれていますが、現在この霊場会は、存在しません。第十九番霊場として、京都の名地蔵のひとつに数えられていたのは、江戸時代のことだそうです。

 

愛宕神社とのつながり

愛宕神社は、「火伏」のご利益で有名です。創建には諸説ありますが、役行者が神廟を建てたのが始まりと言われています。そして慶俊僧都は中興の祖とされています。したがって、役行者&慶俊僧都ゆかりの西林寺は、同じく火防が目的であったことからも、愛宕神社と兄弟といっても良いかもしれません。

 

愛宕天狗のお休み処だった

愛宕山に棲む天狗、太郎坊。「天狗」と聞いて思い浮かべる、鼻の大きな鞍馬の天狗と異なり、くちばしと羽のある烏天狗です。この愛宕山の太郎坊、京の都見物に訪れるたびに、必ず境内の松で休んだそうです。

烏天狗が飛んできて羽を休めたとの言い伝えから、山号が「羽休山飛行院」となったのでした。

ご住職のご自宅である庫裏には、烏天狗を描いた「烏天狗騎猪図」があります。特別に拝見する機会を頂きました。

絹本着色「烏天狗騎猪図」 猪は愛宕神社の眷属

描いたのは海北友徳(江戸中期~後期)。建仁寺方丈の龍図を描いた海北友松を祖として七代目の御所御用絵師です。鮮やかな色彩の真筆が見られて嬉しかったです。

京都国立博物館での特別展にも展示されました)

 

天狗が羽を休めた松は、台風による被害で切り株だけになってしまいました。ところがそこから再び松が成長したとのこと。

 

愛宕神社との繋がりが強いこのお寺では、毎年11月23日に山伏が参集し「彩灯大護摩供」や「幸せ善哉」の接待が執り行われていました。しかしながら、コロナ禍以降は執り行われていません。住宅密集地にあり、防火の観点からも再開は難しいとのことでした。

 

本堂の外からも仏像を拝観できます。

少し暗いので見えにくいのですが

◆中央:木槿地蔵菩薩坐像 先の写真のお地蔵さま。現在は可愛いお召し物をまとっています。

◆向かって左手:不動明王 護摩供養には欠かせない、魔を焼き尽くす炎の明王🔥

◆同じく左手:役行者 天空を飛び、高下駄で山岳を駆け巡る、スピリチュアル界の元祖スーパースター!

◆向かって右手:聖観世音菩薩 千手観音や馬頭観音など三十三に変化する観音さまの中で、人間のお姿をした基本形(聖観音=正観音 )

この聖観世音菩薩立像は、昭和の大仏師、松久朋琳(まつひさほうりん)作です。松久朋琳は、四天王寺仁王像や鞍馬寺の魔王尊像も彫った方だと知り驚きました。

 

このお寺を創建した慶俊僧都は、空海に「虚空蔵求聞持法」を授けた師匠と言われています。奈良の大安寺(仏教の大学的位置づけ)で指導していた渡来系の僧なので納得です。

 

80歳になられてなお、かくしゃくとされている山本真照住職は、このお寺で現在も五行易学を指導されています。

京都新聞をはじめ、全国36紙に掲載された「今日の運勢」を執筆されていた方です。

 

 

幾度もの災難によるお寺の荒廃は、ムクゲの花のはかなさを思わせます。しかしながら同時に、深い歴史が刻まれ、1300年を経た今も地元の人々に親しまれている事実は、強さを合わせ持つムクゲのしなやかな生命力そのものです。