【京都検定】古都学び日和

癒しと気づきに溢れる古都の歴史散歩

【西賀茂 神光院】大田垣蓮月 隠棲の地

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かつて上賀茂神社付近にあった道標。 「厄除弘法大師歌人 蓮月尼 隠栖之地」 と刻まれている。

京都三大弘法のひとつ神光院(じんこういん)

上賀茂神社から、賀茂川をはさんで西へ1㎞ほどの「西賀茂」に「神光院」(じんこういん)はあります。

五山の送り火の一つ「船形」を背にした住宅街にひっそり在るこの「神光院」が、「東寺」「仁和寺」と並ぶ「三大弘法」であることはあまり知られていません。通称「西賀茂の弘法さん」。

 

鎌倉時代上賀茂神社神職が「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」とのご神託を受けて創建その由来に因み、神光院と名づけられました。

 

創建前の平安時代には、御所に瓦を収める職人の宿でもあったことから「瓦屋寺」と呼ばれていたそうです。弘法大師空海が90日間修行をし、ここを去る時に境内の池に映る自らの姿を木像にしました。それが現在も本堂に安置されています(お堂は閉まっていますが、予約をすれば拝観可能かもしれません)。

 

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本堂には弘法大師自らが刻んだ大師像が安置されている(訪問日11月14日)

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この池に映った自らの姿を空海は木像にしたのですね。

本堂にお参りしていると、バサッと音がしてアオサギが現れました。

 

 

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池のほとりの山茶花(サザンカ)。真っ白な八重。ここにしかない品種だと後で知りました。

 

厄除弘法さんとして  

「厄除弘法」と呼ばれる所以は、7月21日と土用の丑の日に行なわれる「きゅうり封じ」。きゅうりに氏名・病名を書いて病魔を封じ込め、祈祷を受けます。そのきゅうりで身体の悪いところを撫で、自宅または境内に埋めると、平癒すると言われています。弘法大師が中国から伝えた祈祷法とのこと。

 

お遍路さんが四国八十八カ所巡礼に旅立つ前に、ここで旅の無事を祈願する習わしもありました。

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ポスターの言葉。「同行二人」 “お大師様は、いつも一緒に歩んでくださっています”

 

いつ訪れても観光客はなく、静寂な空気に包まれています。

「静かなところや。なんとのう気が朗らかになります。生涯ここに置いてもらえませんか」磯田道史『無私の日本人』)

幕末の女流歌人・太田垣蓮月がこの静寂を愛し隠棲した痕跡が、今も遺っています。

 

大田垣蓮月(おおたがき・れんげつ)

🌺家族全員を次々と病で喪い、自らの業であると自責し出家した尼僧。

🌺超美人でありながら、それを疎み、自らの手で容貌を損ねた女性。

🌺歌人・陶芸作家として名を馳せながら、清貧を貫いた文化人。

🌺富岡鉄斎文人として育て、西郷隆盛に戦を止めるよう手紙で促がした教養人。

🌺つきまとう人気を疎み、住まいを転々と変えた引っ越し魔。

 

そんな蓮月が「屋越しの蓮月」というあだ名を返上し、ここを遂の栖としました。

 

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「蓮月尼僧 栖之茶所」と刻まれている。 側面には「是より西五町 小谷に墓あり」

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蓮月が晩年10年間を過ごした茶所。寺の門をくぐって、左手にあります。

数々の文人が彼女を慕って訪れました。

 

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  蹲(つくばい)が苔むしています。蓮月さんが客人をもてなしたであろう様子を想像します。

 

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茶室とつながっている「不動堂」 以前は解放されていて、不動明王を拝むことができたが、現在は閉鎖中。

来るたび、この畳に腰かけ、蓮月さん気分で境内をながめています。

 

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           池のアオサギさんは、ずっと同じ場所に佇んでいました。

 

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蓮月尼の足跡を記した石碑

七五三や結婚式で賑わっていた上賀茂神社から歩いて15分の古刹には人影もなく、ひっそり秋の空気を満喫できました。周囲は住宅に囲まれており、バス通りにも面していますが、時を経ても変わらない閑寂さが漂っています。

 

喧騒を嫌ってこの地に隠棲した大田垣蓮月。その生涯ついては、少し詳しくまとめておきます。

 

美貌と才気にあふれる女性、大田垣蓮月 (おおたがき れんげつ1791-1875 江戸後期~明治8年)

出自

伊賀から上洛した武士(藤堂新七郎が有力説)と花街の芸妓の間に生まれた私生児知恩院に仕える寺侍、山崎常右衛門(のちに大田垣を名乗る)の養女となり、誠(のぶ)と名づけられました。

幼い頃から人目を惹く美しさで、大きくなるにつれ、通りを歩くと男たちが後ろをついてくるほどの美貌だったそうです。おのぶはこれを疎ましく思い、逃げ隠れる日々。

ところが痛快なことに、並外れた運動神経に恵まれた彼女は、剣を振るい、鎖鎌(!)まで振り回す武芸の達人でした。恥じらいのある控えめな性格でありながら、忍びの者としてスカウトが来そうな逞しさ

しかも、6歳から和歌を詠むという、才気にも溢れていました。知恩院の付近には多くの文人が住んでいて、可愛いおのぶは自ずと英才教育を受けていたようです。

 

付きまとう不幸

美貌、運動神経、知性… 天性のものをすべて持ちながら、彼女には常に不幸が付きまといました。

最初の結婚で、幼子三人、果ては夫までが病死。二度目の結婚でも、夫は病で早逝します。

自分は人を不幸にする…自責の念から、おのぶは剃髪、尼となりました。三十三歳でした。

知恩院から「蓮月」という法名を与えられ、同じく剃髪した養父と、二度目の夫との間にできた二人の子と共に、小さな塔頭で暮らすことになりました。

ところが追い打ちをかけるように、娘がわずか七つで、その下の男の子も幼くして亡くなります。

 

自らへの破壊行為

四十二歳で養父も亡くなり、独りになった蓮月。住まいとしていた知恩院塔頭は尼寺ではないため、出ていかなくてはなりません。聖護院村のみすぼらしい小屋に住み、生活の糧のため和歌を教え始めました。

しかし、美しすぎる蓮月には、男が次々と言い寄ってきます。容貌を損なえば、付きまとわれないだろうと、まずは眉を抜きます。それでもだめでした。遂に、糸を前歯に括り付け、痛みに悶絶しながら1本、また1本、と自ら抜いていったのです。

 

無欲の人

さすがに抜歯事件後は言い寄る者はなくなりました。蓮月は新たな生活の糧として、手びねりの急須を作り始めます。そこに自作の和歌を釘で彫りました。出来ばえは不細工で、へんてこだったようですが、京の土産物屋に頼み込んで置いてもらいました。

蓋を蓮の葉のかたちに、取手を茎のかたちにした素朴な急須は、「蓮月焼」と呼ばれ、次第に人気を呼ぶようになります。

やがて贋作まで出回るようになりましたが、蓮月は「どんどん製してくだされ」と、贋作にまで和歌を彫ってあげたというのです。

 

引越し魔「屋越しの蓮月」

すっかり有名になってしまった蓮月は、静かな暮らしを求めて、転々と住まいを変えます。衣は着たきり、家財道具もほとんど持たず、大八車で身軽に移動。引っ越す度に小屋の修繕を任されていた馴染みの大工は、「さよう宿替えは三十四度までは覚えています」と語ったそうです。

山科の醍醐寺黒門前には、今も仮寓跡碑が立っています。

 

のちの大文人を育む

十五歳の少年がいました。のちの富岡鉄斎です。毎日やってくる不幸な生い立ちの少年を、蓮月は本当の母のように慈しみ、学問をさせ、様々な教養を育みました。仏教、神道などを修め、のちに最高峰の文人画家として大成した富岡鉄斎があるのは、蓮月との暮らしに由るところが大きいでしょう。

六十六歳になっても容貌なお衰えず、相変わらず転々と引っ越す蓮月のため、二十一歳の鉄斎は同居を始めます。陶芸用の土を運び、出来上がった作品を窯元まで運ぶ手伝いをしました。

 

神光院へ

やがて屋越し蓮月の噂を聞いた西賀茂村・神光院の智満和尚の招きで、二人はこの寺へ住むことになります。例の大工が、三畳敷の建物を移築し、神光院の茶所にくっつけました。

「静かなところや。なんとのう気が朗らかになります。生涯ここに置いてもらえませんか」(『無私の日本人』 p353)

ここを終の棲家とした蓮月は、相変わらず、誰にでも惜しみなく分け与える暮らしを続けました。村の子供たちに紙を与え、絶えず訪れる文人墨客が置いていく書画を、欲しい人に譲り、幕末の動乱で飢えた人々を救済するため、喜捨をすることで粥施工をおこないました。

喜捨の元手となったのは、自ら綴った短冊や画賛です。

殺し合いをやめるよう、西郷隆盛に和歌で直訴したことも伝わっています。江戸城総攻撃を取りやめ、無血開城となった背景には、蓮月の思いがあったからだと『無私の日本人』で磯田氏は断言しています。

 

神光院で八十四年の人生を終えた蓮月。弔いでは西賀茂の村中の人々がわんわん声を上げて泣いたそうです。

 

引用・参考文献:磯田道史『無私の日本人』(文春文庫)