今行きたいお寺はどこですか?と聞かれたら、真っ先に「古知谷阿弥陀寺(こちだに・あみだじ)」と答えます。
文字通り谷あいにひっそり佇む浄土宗の古刹、京都検定がなければ名前すら知ることはなかったでしょう。
外出自粛が続く折、実際に訪れることはできませんが、2017年7月と2019年5月に訪ねたときの思い出を綴りながら、心の中で参詣をしようと思います。
参道に足を踏み入れたら別世界
左京区大原古知平町にある阿弥陀寺。寂光院から、若狭街道を車で5分ほど北上して左折すると、山門に到着です。
最初に訪ねたのは7月下旬、市街地では京都特有のじっとりとした暑さに参ってしまう頃ですが、ここは避暑地のようです。
巨木に挟まれた急坂の参道が見えてきます。
参道に足を踏み入れた瞬間、サッと冷気に包まれるのを感じ、一同(妹二人と義弟と)びっくり…。
「神気、森に満つ」を体感できました。
ひんやりとした美味しい空気を呼吸しながら、爽やかな沢の音を聞き、樹木や苔の緑を愛でつつ、ゆったり歩きます。
私たち以外誰もいません。静寂そのものです。
やがて、樹齢800年以上の「古知谷カエデ」が現われます。谷あいによく見られるイロハモミジですが、風雪に耐えてきたのでしょう、独特な形状です。阿弥陀寺は慶長14 (1609)年に創建されましたが、その時すでに古木だったと寺伝に書かれているそうです。
古知谷一帯は、この老木を中心にたくさんのカエデが秋を彩るそうです。
古知谷カエデのすぐそばには、二段に分かれた「実相の滝」。時期によってはもっと水量が多いようですが、この時も清涼感を放っていました。この沢川はやがて高野川上流に注ぎます。
参道を歩き始めて20分ほどで到着です。正面には懸崖造りの茶室が見えています。
次回は誰が迎えてくれるかな
石段を登って本坊に向かう途中、銀色のトカゲさんの歓迎を受けました。
陽を受けて輝いて、まるで神様の使いのようです。
2年後の5月に訪ねた時には、ここで瑠璃色のトンボさんが迎えてくれました。
私たちの目の前で、石段に降りたり、手すりに止まったり…を繰り返しながら上まで誘導してくれたのです。
広々とした本坊と九輪草の庭
拝観入口のある本坊にお邪魔します。誰もいない畳敷きの広間は寝転がりたい!と思うほど広々としています。
そこから降りられる庭には、5月には色とりどりのクリンソウ(九輪草)が咲いていました。サクラソウの一種です。
「九輪」とは、寺の塔のてっぺんについている相輪の一部です。
花は九輪のように輪状に咲くことから名付けられました。
日本人らしい命名ですね。
本坊からの渡り廊下は、開祖・弾誓上人のミイラが安置されている巌窟につながっています。
即身仏となった木食上人弾誓
木食(もくじき)とは、固有名詞ではなく、草木しか食べない修行僧のことです。穀物さえも断ち、草や木の実だけを食して行を受ける人たちです。
弾誓(たんぜい)は尾張出身の木食僧で、念仏三昧をしながら諸国行脚していました。最後の修行地として58歳の時に古知谷へやってきました。慶長14 (1609)年のことです。
写真の廊下の先にある巌窟は、入定を決めた弾誓上人が、弟子たちに頼んで掘らせた石廟です。
松の実だけを食べて身体を樹脂化した上人は、石廟の中の石龕(せきがん)に生きながら入り、ミイラ佛となったのです。62歳でした。
石龕にいらしたミイラ佛は、明治時代に今私たちが目にする石棺に収められました。
お参りをして、巌窟の中に入り、石棺のすぐ近くまで行くことができます。暗いのでペンライトも置いてありました。
‟入ってもいいのかな…“ 畏れ多い気もしましたが、生身の阿弥陀仏になられた弾誓上人にご挨拶をしました。
巌窟の中は一層ひんやりして霊気が漂っていますが、怖くはありませんでした。
この石廟はちょうと本堂の裏にあたります。
本堂の仏さま
本堂(開山堂)にお参りします。正面の本尊は、弾誓上人自らが掘った自像で、「植髪の弾誓仏」と呼ばれています。自らの頭髪を植えたのですが、今は両耳脇に少し残っている程度です(がよく見えませんでした)。
脇には創建当初のご本尊、阿弥陀如来(重要文化財)が祀られています。鎌倉時代の作で、キリリと引き締まったお姿です。
浄土宗では、ひたすら念仏(南無阿弥陀仏)を唱え、浄土での幸福を願います。浄土は彼岸、彼方(かち)です。
古知谷(こちだに)の名は、「此方(こち)」に由来するという説もあるようです。
本堂から外を見ると、私たちが「ゴレンジャー」と呼ぶ「五智如来像」が並んでいます。
外に出て、再び沢の音を聞きながら日光浴&森林浴です。
清浄な空気にほんとうに癒されます。
この後また本坊に戻って、寛いでいるうちに閉門の時間となってしまいました。
長居させて頂いて感謝でいっぱいです。
お寺のパンフレットには、「新緑のすがすがしさを求めて拝観の人達も少しずつ登ってこられますが、静寂さは失われることはありません」と書かれています。またいつか、ここでゆっくり時を過ごせるのを楽しみしています。