ミラクル連続の人生初トレッキング
雲一つない秋晴れ、風速0m、絶好のタイミングを見つけて、トレッキング・デビューをしました。
服部嵐雪が「布団着て寝たる姿や東山」と詠んだ、なだらかな稜線が続く東山三十六峰。北端は比叡山、南端は伏見の稲荷山です。京都一周トレイルの東山ルートとも重なります。山歩き初心者の私が最初に選んだのは瓜生山(うりゅうやま)。比叡山から数えて八つめです。この山にまつわる幾つかのエピソードに心惹かれていました。
「瓜生山」は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)と同一視される牛頭天王(ごずてんのう)が降臨した地。好物の瓜が一夜にして実ったことに由来する名です。神話の舞台であり、その後数々の歴史上の人物が往来した史跡でもあります。標高301m。
出発地点は市バス「北白川別当町」(白川通)から東に入った「バプテスト病院」駐車場。
瓜生山の主、地龍大明神
小さな社殿に向かって手を合わせ「今日、ここに来られて幸せです」と伝えると、真後ろの鳥居からサーッと爽やかな風が吹いてきました。優しくて心地よい風でした。嬉しくなって、
「写真を撮ってもいいですか? ブログで紹介してもいいですか?」と聞くと、突然「バラバラバラツ」という大きな音と共に何かが降ってきました。社殿の脇に大量のドングリ(笑)! 頭上を避けて落としてくれたので、OKみたいです。
由緒書きによると、地龍大明神は瓜生山の主神だそうです。
この地龍大明神は、山霊の神々を合祀した「大山祇(おおやまづみ)神社」の中にあります。山に登らず、この神社にお参りするだけでもパワーを頂けます。大山祇神社は鳥居があるだけで社殿はありません。山自体がご神体のようです。そのくらい辺りから神気を感じます。ご祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)とその娘、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と書いてありました。
この鳥居の前では、清らかな小川のせせらぎと鳥の声が聞こえます。
猪や猿などの「野生生物に注意」の看板にビビりながらも、木漏れ日の差す心地よい山道を歩きます。他には誰一人歩いていません。
茶山山頂に到着
20分ほど歩くと、平らな場所に出ます。計らずも東山三十六峰第七番の「茶山」山頂でした。標高180mですが、高野~松ヶ崎一帯の街並みが見下ろせます。向いには五山の送り火の船形山も見えます。
麓を西に行くと、叡電の「茶山」駅。以前からなぜ「茶山」なのかな~と思っていましたが、謎が解けました。ここは茶屋四郎次郎の別荘があったそうです。茶屋四郎次郎家といえば徳川幕府御用呉服商であり、京の情勢を家康に進言していたことでも知られています。初代清延の頃、足利義輝が茶を飲みに邸宅を訪れていたことに因み、屋号が「茶屋」となったそうです。
家康から許可された朱印船貿易で巨万の富を得、京の三長者に数えられました。別荘のあったこの地は、現在京都芸術大学の敷地になっています。
白幽子巌居跡へ
ここからの道は急斜面が続き、息が切れて何度も立ち止まって休憩しました。(元気な方なら全然なんてことない道だと思います) 風もなくシャツ一枚でも汗ばむ陽気でしたが、立ち止まる度に、木の梢が大きく揺れるほどの風が吹いてくれました。あまりにタイミングの良い強めの風の応援もミラクルでした。
15分ほどで「白幽子巌居之跡」(はくゆうし・がんきょのあと)到着。瓜生山に来たかった理由の一つがこの場所です。
江戸中期に禅を民衆に広めた白隠は、臨済宗中興の祖として有名です。その白隠の命の恩人が白幽子という仙人です。まさにこの地に巌居していました。
☝こんな姿だったようですが、元は詩仙堂を造った石川丈山の弟子でした。丈山の死を看取った後、ここに隠棲していました。鹿や猿と会話し、人を避けて暮らしていたそうです。
白隠を救った白幽子
一方、過酷な修行により心身をすり減らし、肺病を患っていた白隠(当時26歳)は、医術の秘法を操る仙人の噂を聞いて、美濃の国から瓜生山にやって来ました。
一目で白隠を「ただ者ではない」と見抜いた仙人は、「内観気海丹田の法」を授けます。この「内観の法」で白隠は健康を取り戻し、以後の活動で歴史に名を刻むことになります。そして、なんと84歳まで生きたというのです!
白隠は白幽子に秘法を授かったことを『夜船閑話』(やせんかんな)という書物に記します。
この「白・白」エピソードを知った富岡鉄斎が、この霊地保存を発起し、写真にも写っている石碑を刻みました。
立ち去りかけて、「あ、私もあやかろう」と戻ってお願いをしました。するとまた周囲の木々の梢がサラサラと音を立て、風が吹き、今度は枯れ葉がシャワーのように降ってきました。
またもミラクルです。
元気をもらって先へ進みます。清沢口石切り場(石仏や石燈籠を造るため花崗岩を切り出していた所)を過ぎると、さらに狭い急坂になり、足元も危なくなってきました。
どちらに進めばいいか分からない所では、木に赤いリボンが結ばれています。
休み休み、歩くこと20分、瓜生山山頂に到着です。
瓜生山山頂到着!
山頂は小さな広場になっていて、周囲を木々が囲んでいます。
1匹のオレンジ色の蝶が出迎えてくれました。くるくる周りを飛んでは、地面に止まるのを繰り返しています。
小さな祠があり、「幸龍大権現」と書いてあります。ここが麓の狸谷山不動尊の奥の院とのこと。お参りしたちょうどその時、「ドン・ドン・ドン!」と太鼓が響いてきました。本堂で鳴らされているようです。ここでも歓迎されたようで嬉しくなりました。
この狭い山頂は、「北白川城」本丸跡です。戦国時代には「如意ヶ嶽城」と共に足利将軍家、管領細川家、三好長慶、松永久秀らが攻防を繰り返した、と案内板に書かれています。
戦勝を祈願し「勝軍地蔵」が祀られた(近江の六角氏により)、というのも頷けます。
まさに「兵どもが夢の跡」。今はのどかで清らかな気に包まれています。
置いてあった太い木の枝に座って、ゴマ団子をほおばり、青空を仰ぐ至福のひと時。
遂に誰一人出会うことはありませんでした。
ホルンフェルスを形成した瓜生山
ブラタモリでもやっていた「ホルンフェルス」ご存知でしょうか。
ホルンは horn 「角」です。フェルスは felsen 「崖」。
白亜紀(9千500万年前)、この瓜生山の下にマグマが貫入して高い山が形成されました。そのマグマの高熱によって比叡山南側と大文字山北側が硬くて緻密な岩石になりました。熱変性を受けた岩石は浸食を免れて、現在「角」のように見える形で残りました。比叡山と大文字山です。一方、真ん中で冷えたマグマは花崗岩となって日光や風雨による浸食を受け、どんどん低くなっていきました。流れ出した花崗岩は白川砂となって扇状地を作ったのです。
この白川砂が枯山水庭園に用いられるようになりました。先ほど見たように、花崗岩そのものは石仏や石燈籠に用いられています。気の遠くなるような太古の地球の動きが、現在の京都文化につながっている、と思うと感慨深いです。
この瓜生山が比叡山より高かったというのも驚きです。とてつもない長い歳月を経て現在の地形になったことが分かりました。
下山中に味わったスリル💧
4時までに下山すれば狸谷山不動尊にもお参りできるかな、と思い山頂を後にしました。
ところが、余裕で間に合うと思ったのに、道を間違えてしまいました。
「本堂近道」という小さな立て札が足元にあったので、矢印の通り細い道を分け入ったのですが、少し歩くと道がなくなりました。不安になりながらも先へ進むと…
斜面が急すぎてとても下りることはできません。探してみても他に道が無いどころか「キケン 下りるな」と貼り紙と共に紐が張られている始末。
まじか…と言いながら、あの鎖を頼りに戻ります。
なぜ「近道」なんて札を立てたのでしょう。少し腹が立ってきました。
日も傾いてきて、寒くなってきました。「山、なめんなよ」という天狗さんの戒め?
元の分かれ道に戻り少し行くと、曼殊院方面への矢印があったので、ほっと一息。
初めからこの道を行っていれば15分くらいで本堂まで下りられたはずです。
虚空蔵童子像がありました。本堂から奥の院に向かうための目印です。これが「第十四番」。下るにつれ「第十三番」「第十二番」…
鳥居があり、この山は信仰の山だと改めて思いました。
やっと到着した時には午後4時1分。閉門時間は4時です。残念。
この先延々と続く階段250段が、疲れた脚にとどめをさしてくれましたが、なんだか楽しかったです。階段の途中で弘法大師像の大きな背中が見えた時もほっとしました。
境内を出て、同じ道(曼殊院道)をずっと下っていき、「一乗寺降魔不動明王」(大きな不動明王の石仏。その前にベンチがあって一息つけました)、八大神社(『宮本武蔵』で有名)に参拝。目の前が詩仙堂です。あの白幽子は、この詩仙堂を造った石川丈山の弟子でした。地理的にも一直線に繋がっているのだと分かりました。
目まぐるしく心が動かされた半日でした。
次元の違う見えない世界を感じたようで嬉しくなったり、森林の澄んだ空気を味わったり、白亜紀から戦国時代という壮大な歴史に思いを馳せたり、伝説だと思っていた白幽子が確実に住んでいた巌居を感慨深く見たり、ちょっとしたアドベンチャーで肝を冷やしたり。
石仏や庭園を形づくっている白川石や白川砂が、この瓜生山が生み出したものだと知ることもできました。
山歩きだからこそ、一歩一歩踏み占めながら大地を感じることもできました。
小さな山に秘められた奥深さが少しでも伝われば幸いです。
(訪問日10月15日。上りでは汗をかきましたが、夕方になると急に気温が下がりました)