【京都検定】古都学び日和

癒しと気づきに溢れる古都の歴史散歩

【京都検定に登場】中高年で転身したスゴイ人たち その1

禅僧から喫茶店の店主(おやじ)になった売茶翁

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京都学がなければ出会うことのなかった素敵な人たちがいます。記憶する限り、歴史の教科書には載っていなかったように思いますが、もし載っていたとしても、若い時代には心に響かなかったかもしれません。

年齢を理由に一歩踏み出すことを躊躇する現代人に、江戸時代の京に暮らしたひたむきな人たちが勇気を与えてくれています。

 

地位や実績にしがみつくことなく、仕事をあっさり捨て、心の求めるままに舵を切り、自分の生き方を全うした人たち。精神的に豊かに、優雅に、楽し気に。しかも、みんな長生き! 結果として人脈を広げ、有形無形の宝を現在に遺してくれました。 

それでは第一弾、売茶翁をご紹介しましょう。

 

売茶翁(ばいさおう)(高遊外)   江戸中期(1675-1763)         

11歳で出家し禅を学んだ、黄檗宗の僧(月海)。肥前(佐賀県)出身。

22歳で病気になり、さらなる仏道修行のために、各地を行脚。

33歳、長崎で煎茶の知識を吸収。

やがて肥前の龍津寺に戻り、長年師に仕えた。師の没後、法弟に寺を譲る。

57歳、 志をもって上洛。

お布施という安定収入で安逸に流れる禅僧たちに反発して。

「袈裟の仏徳を誇って、世人の喜捨を煩わせるのは、私の志にあらず」            

 61歳、 東山に「日本初の喫茶店」通仙亭開業(通仙亭の場所は諸説あり)。

 また、茶道具を担いで移動喫茶店も。茶をふるまいながら理想の世界を求めた。

 

春は桜、夏は清流、秋は紅葉の下で、のどかなよもやま話に包み込んで禅道を説いたと伝わります。格式ばった上流階級の茶の湯にも疑問を呈し、急須で淹れる煎茶を、身分を問わず誰にでもふるまいました。銭筒に下記のような文言が記されていたそうです。微笑ましいですね。

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禅道と世俗を融合させた話術でたちまち大人気になり、喫茶「通仙亭」は文人墨客のサロンと化しました。「売茶翁に一服接待されなければ、一流の風流人とは言えぬ」とまで言われたそうです。中でも、肖像画を描かないことで知られる伊藤若冲は、生涯売茶翁に憧れ、肖像画をいくつか描いています。「動植綵絵」を見た売茶翁も「若冲の絵の上手さは神クラス」という意味の書状を遺しています(宮内庁三の丸所蔵)。

経歴に戻りましょう。

 

67歳、宇治田原の永谷宗円を訪ね、彼が考案した「青製煎茶」をいたく気に入る。

68歳、 還俗 

鍋島藩の掟(10年に一度帰国すること)により、故郷に戻った際、還俗を申し出る。

この時、「高遊外」と改名。

 

改名のエピソードも微笑ましいです。(以下、想像して現代文に)

     

f:id:travelertoearth:20200131001000p:plain京での暮らしはどうですか?   

f:id:travelertoearth:20200131001212p:plain こうゆう具合に暮らしておる

f:id:travelertoearth:20200131001000p:plainこう優雅に??

f:id:travelertoearth:20200131001212p:plain ハッハッハ~ これからはこうゆうがい(高遊外)と名乗ろう

 

81歳、喫茶「通仙亭」閉店。その後は揮毫などで暮らす。

87歳、没

 

売茶翁は数々の名言を遺しました。友人たちが名言集『売茶翁偈語(げご)』をまとめ、その扉絵に若冲が「売茶翁」を描いています。監修したのは、売茶翁と親交の深かった相国寺の大典顕常。偈語の大正時代の写しを、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932317で見ることができます。移動喫茶店として、東福寺(通天橋)、高台寺下鴨神社糺の森)などに出向いていたことが分かります。

 

売茶翁は1763年7月16日に亡くなりました。現在も毎月16日に宇治の萬福寺黄檗宗大本山。煎茶を日本に伝えた明の隠元隆琦が創建)で売茶忌がおこなわれます。

 

2013年(平成25年)、売茶翁没後250年を記念し、「売茶翁没後二百五十年記念碑」が建立されました。北大路大橋の東詰めを少し北に上がったところにあります。逆光が眩しく、上手に撮影できませんでしたが、こちらが記念碑です👇

 

                        

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こちらが副碑です👇        

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このような訳になるでしょうか。「茶道具を担いで、窮屈な住まいを出て 清らかな水の湧く場所を選び鴨川で心を遊ばせる 鼎(煮出し用の鍋)で煮るお茶はこの世の味とは思えない 神仙を求めてわざわざ遠くまで行く必要はない(鴨川のほとりがその境地だから)」

 

漢文にも書にも優れ卓越した文化人でありながら、清貧を貫いた売茶翁。還暦を過ぎてから、茶店の主に転身して煎茶の普及に努めましたが、目指すところは真の禅道の浸透でした。そこに悲愴感はなく、むしろユーモアに溢れる言葉と軽やかな笑い声が聞こえてきそうです。

 

主な参考文献:  

高遊外売茶翁顕彰会HP http://www.kouyugaibaisao.com/

国立国会図書館レファレンス共同データベース

国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932317

Norman Waddell. The Old Tea Seller: Life and Zen Poetry in 18th Century Kyoto (Counterpoint,2010)     

狩野博幸ほか『異能の画家 伊藤若冲』(新潮社, 2008年)        

売茶翁没後二百五十年記念碑  碑文          

【神泉苑】気持ちが洗われる聖地

1月なのに梅雨のような天候。きっと浄化の雨。

龍神さまに会いにいってみよう、と思い立ちました。

Location

二条城の南側 押小路通御池通の間

最寄り:京都市営地下鉄東西線 二条城前

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門をくぐって、空を見上げたとたん、厚い雲の中から鏡のような銀色の太陽が顔を見せてくれました。

雨の雫がついた椿が凛として、爽やか。五月の強い日差しの中訪れたときには、池の龍頭船めがけて光の柱が降りていました。その時と同じく、清々しい気に満ちています。

神聖な雰囲気に浸るだけでも充分ですが、縁起を知ると、間違いなくここが歴史の舞台だったことが分かります。かの有名人たちが息づいていた現場だと思うと、感慨深いですね。

History

延暦13年(794) 

桓武天皇の平安遷都と同じ頃、大内裏南東に巨大な苑池として造営される。清らかな泉が湧いていたことが「神泉苑」の名の由来。

弘仁3年(812)  

嵯峨天皇の「花宴の節」が、記録に残る花見の初出 (『日本後紀』)

◆天長元年(824) 

淳和天皇の命により弘法大師空海が祈雨。善女龍王を勧請して雨を降らせた。

今も善女龍王が棲むという法成就池。日照りが続いても決して枯れることがないこの池が御池通」という名前の由来という説がある。

御池通平安京の「三条坊門小路」に相当する。

貞観5年(863)     

疫病大流行。貞観年間に二度御霊会が開かれる。国の数66本の鉾を立て、神泉苑の池に繰りこみ、厄払い。これが後の祇園祭発展。

寿永元年(1182) 

大日照りが続く。白拍子静御前が祈雨の舞を舞うと、三日間大雨。

水干に立烏帽子姿の静御前は、ここで源義経に見初められたという。

◆慶長7年(1602)   

徳川家康の二条城建設に伴い、神泉苑の泉が内堀に利用される。敷地積が約十分の一以下に。

 

東寺真言宗の寺院ですが、神仏習合そのものの伽藍です。

👇

Holy places

●本堂 聖観世音菩薩(聖観音)・不動明王弘法大師

●善女龍王社 

一つだけ願いを叶えてくれる善女龍王。その願いを念じながら朱塗りの橋(法成橋)を渡り、法成就池の対岸にあるお社にお参りすると必ず成就すると伝わる。

 

仏法の守護神である龍神空海の祈祷を成就させたように、私たちの願いの成就も助けてくれそうです。

お社の中を真正面から撮影するのは常々失礼だと思っています。ご挨拶をして、撮らせて頂きました。

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願いを念じて渡る法成橋

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拝殿の前で仲良く昼寝をする三羽のアヒル真言を唱えても起きる気配なし。

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アオサギが飛んできて、善女龍王社の屋根に止まった。神使に違いない。


 恵方社  

大歳神(歳徳神(としとくじん)を祀る祠。(歳徳神はその年の福徳を司る神のこと)

毎年大晦日に向きを変えられるとても珍しい祠で、新年の恵方に向かって参拝できる。

 

先ほどは願い事一つに限定だったので、次のお堂のご本尊名に嬉しくなりました。「増運」弁才天! ご利益追加もOKのようです。

👇

●弁天堂 

増運弁才天(人々に知恵や財運を届けてくださる、水の神さま)

京都案内誌『京羽二重』(水雲堂狐松子著)にも記される弁財天廿九カ所霊場のひとつ。

          

●矢剱(やつるぎ)大明神社 神泉苑の鎮守稲荷社

真言宗とともに稲荷信仰も広まったから、稲荷社なのでしょうか。なぜ矢剱大明神なのかはよく分かりません。いくつかのサイトで書かれていることですが、東寺の空海との祈雨合戦に敗れた西寺の守敏が妬んで矢を放ったが、地蔵菩薩の化身が身代わりとなって空海を救った話があります。しかしそれは「矢取地蔵」として羅城門跡(旧街道「鳥羽の作り道」の起点)に祀られています…。今度、寺務所の方に尋ねてみます。

【追記】1か月後、再訪した際に寺務所の方に尋ねました。この神社は明治時代に建てられたもので、「参拝するみなさんを矢剱で守護」してくださる神様なのだそうです。

 

Relaxing scenery

雨上がりのしっとりした空気の中、樹木や椿の花が生き生きとしていました。

仲良しアヒル、全体を見守るかのようなアオサギ、人が歩いても逃げることなく水たまりの水を飲むスズメ。みんなマイペースで伸び伸びと生きています。

こうして写真をアップしても、全く同じ光景は二度とありません。

季節ごとに訪れたいものです。

鯉塚・亀塚にも、生きものたちへの慈しみが窺える素敵な寺院でした。

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最後に、ファンタジー👇

Episode

五位鷺ゴイサギ)伝説

神泉苑HPより)

醍醐天皇神泉苑行幸になったときに鷺が羽を休めていた。
帝は蔵人にあれを捕らえて参れと仰せられた。
蔵人が近づくと鷺は飛び立とうとした。
蔵人が「帝の御意なるぞ」と呼びかけると鷺は地にひれ伏した。
帝は大いに喜ばれ、鷺に「五位」の位を賜った。              
以降、鷺は「五位鷺」と呼ばれ、謡曲にも謡われるようになる。

 

👇能「鷺」で描かれている最後の場面(『面からたどる能楽百番』(淡交社)より)

‟少年や還暦を過ぎた年代は無垢の存在と見なされ、能面をつけない「直面(ひためん)」で舞う“

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官位を授かった鷺は喜びの舞を舞う

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ゴイサギ神泉苑の住民


 

【京都検定1級】合格を目指しつつ巡る歴史散歩ブログ開始

独り占めはもったいない

京都検定1級に4度落ちました。今年5度目のチャレンジです。

古都の歴史・文化はあまりにも幅広く、深く、好奇心をかき立てると同時に、様々な癒しと気づきを与えてくれます。自分一人で味わうにはもったいない!と常々思ってきました。

 

「合格体験記」ではありません。しかし、不合格だったからこそ、長期間学び続けることができています。

そして、非・京都人だからこそ、何もかもが新鮮で驚きに満ちています。

「なるほど!」と膝を打つような知識もさることながら、複数の事象の「つながり」が見えてくる快感、様々な人物の「生き方」から得られる感動… 今の学びは、たくさんの喜びと励ましを与えてくれます。

本当にほんとうに、楽しいのです。

 

京都の歴史・観光地理・文化をシェアしたい

「神社」「寺」「遺跡」「街並み」「祭」「自然」「人物」「文学」「食物」…カテゴリーは様々です。

にわか京都人の素人目線で、感動したことを綴っていきます。京都は、共有したい魅力の宝庫だからです。

共有するためには、きちんとリサーチもします。理解が深まることが自分自身の喜びでもあります。もはや「試験に出るかどうか」はどうでもよいです。負け惜しみではありません(^_-) 

興味深いと感じたものをしっかり調べる、1つの事柄が次々と違う分野に連鎖していくのに任せる、といった自由な学びも楽しいものです。それが誰かの楽しみにつながれば、望外の幸せです。

 

時々「奈良」

私は奈良ソムリエです。「奈良まほろばソムリエ検定」という、県民にさえあまり知られていない検定なのですが。奈良県民ではないからこそ、その魅力にはまり、それはそれは多くのことを学びました。

今になってみれば、京都を知るためのベースになっていますが、京都とはまったく異なる魅力があります。

奈良の魅力も綴っていきたいです。

 

では小沢蘆庵先生に倣って「ただごと」日記、始めます。